私がこの文章を書こうと思ったきっかけは、ふとした思い付きでした。40歳も超え、いわゆる不惑の歳になってみると、やたらと説教くさくなり、知ったかぶりに話す自分に気づいてのことでした。よく言えば、後輩の指導です。
それまでは「すべての常識を疑ってかかる」をモットーに行動していました。他人の発言に対して、「本当にそうか、もっといい方法がないのか、なぜ、その発想で行動するのか、その発想を支える社会の仕組みは正しいのか」など、あれこれと考え、いつも考えがまとまらず、いわゆる優柔不断でした。また、そういった分析的な態度は反感を買います。もちろん、今でもそうです。
周りの人たちの半分が後輩になったために説教くさくなったわけではなく、今まで積み上げてきた考察がある一定の水準に達したためで、個別の思索の結果が、現在、相互につながりつつあるのだろう、と、突然、思い当たりました。個別の問題だった日常の問題、「これでいい」のをどうやって保証するのか、といった問題、専門の生命科学の問題、その社会的な意義、社会常識の「常識」としていいものと「短期的な常識」に過ぎないもの。これらの諸問題が、実は人間の知識や認識に限界があると考えることでかなり解決でき、そして、その認識を土台として成り立つ社会の仕組みがおぼろげながら見えてきました。
自分の考えていることを整理して体系化すれば、もっとうまく生きれるのではないだろうか。いわば、自分の処世術のために書いています。限りある脳味噌ですから、個人が係わる世界くらい、すべてについて整理できるのではないかという仮説もありました。ところがどっこい、なかなか書きつくすことができません。さらに、この文章を多くの興味ある人々に読んでもらい、遠慮のない批評をもらうのが完成度を高め、結果として自分の認識を高めるでしょう。
このような問題を取り扱うための学問であった哲学がしち面倒くさい言葉の羅列で、自分にとって敷居が高すぎました。私は哲学は好きですが、哲学書は嫌いなので、できるだけ表現は日常語にとどめることを心がけました。おそらく、高度な考えを表現するにも、日常の書き言葉で十分なはずです。
現在はインターネットという便利な発表手段があります。長い文章を単にウエブページに載せるのでは読むほうも大変だし、読まれないのではないか。そこで、メルマガにするのがよいと思いました。約1年をかけて、宇宙の誕生から始まって、地球の歴史、生命体の歴史、人類の歴史、それらを現代の視点を交えて現代まで解説する。特に、考え方に力点を置き、科学的な認識、人生論的な理解について書く。次の年は、その改訂版を書く。こうして積み上げていけば、全体として自分の哲学の程度を点検できることになる。一方で、ネットで記憶を確認すると、いろいろな情報や考え方に出会うものですから、世界が広がっていく気分です。
自分自身の限界もあります。歳をとって今後の知的集中力の絶対量の限界が見えてきました。興味のあることをするための時間の総量が足りない。昔からそうでしたが、最近では痛切に感じます。そんなに何もかもはできないのですから、優先順位を考えなくてなりません。そのためには漫然とやりたいことをやるのではなく、体系的に、計画的にやりたい。自分の考えている枠組み全体を明確にしておきたい。
現象学の祖とされるフッサールの講義は毎年同じテーマの繰返しでした。同じノートを繰り返すだけのどこかの教授の講義と違い、内容が年毎に深まったと評価されています。分子生物学の有名な教科書は改訂版が定期的に出版されます。学問の進歩が早く、内容が数年で陳腐化するからです。重量化も目を見張るものがありましたが、最近は枕の高さほどの水準に納まっているようです。
メルマガを書き始めてから、1年ほどして、古い手紙を整理していたら、京都時代にアルバイトでお世話になった先生からの手紙が出てきました。日付が90年ですから、私が30歳のときです。先生から来た手紙に、私がメルマガに書いた科学の社会的な位置づけについて論評を返事として出し、それに対する返事のようでした。このメルマガのモットーに符合する内容を2つ書き抜きます。
手紙のことはすっかり忘れていましたが、この手紙もメルマガの執筆動機のひとつになったのでしょうか。
あくまで自分のための作業なので、自分の知っている範囲の事柄を、自分の認識の深さに応じてブロックパズルを組み立てるような、そんなイメージです。読者の皆様には雑学的な知識となりますので、お好きなところから入ってください。
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