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1. ビッグ・バン・・・無限大と無限小
2. 恒星の誕生・・・宇宙の晴れ上がり
3. 銀河の大規模構造の誕生・・・流れと秩序
4. 恒星・・・原子の多様化
5. 天の川銀河・・・小宇宙の成り立ち
6. 太陽系・・・天空の秩序
7. 地球の誕生・・・太陽系の非ガス成分
8. 大気の誕生・・・地球表面の分離
9.地殻の誕生・・・宇宙からの爆撃
10. プレート・テクトニクス・・・地球の冷却作用
11. 生命体の材料合成・・・空から来た有機物
12. 生体高分子の誕生・・・海のゆりかご
13. 有機物の濃縮過程・・・プレートのベルトコンベア
14. 生化学反応の出現・・・有機物が有機物を作る
15. 細胞膜の誕生・・・独立した生命
16. 細菌の誕生・・・最初の生命体
17. マントル対流の変化・・・固体も流れる
18. 光合成・・・酸素と有機物の供給
19. 真核細胞・・・分業と専門化
20. 生殖・・・男と女の起源
21. ウィルソン・サイクル・・・生物の進化の原動力
22. 多細胞生物の発展・・・細胞の分化
23. カンブリア紀前夜・・・生物の大型化
24. カンブリア紀・・・進化の大爆発
25. 生物の多様化・・・生物の陸への進出
26. 魚の時代・・・カルシウムはリン酸塩それとも炭酸塩?
27. 陸への進出・・・遮るもののない世界への拡散
28. 造山運動・・・大陸が集まるとき
29. ゲノムの進化・・・変化を許容する仕組み
30. 恐竜・・・古生物のヒーロー
31. 天変地異・・・宇宙からの破壊
32. 哺乳類の進出・・・新しい生殖戦略
33. 植物・・・寒冷化と短いライフサイクル
34. 地球の寒冷化・・・大陸が海の流れを変える
35. 気候・・・周期的な寒冷化と温暖化
36. 日本列島・・・国生みの原理
37. 人類の誕生・・・人も猿もサルから進化した
38. 猿人・・・ヒトとサルの違い
39. 原人・・・驚異的な脳の発達
40. 氷期・・・生き物を鍛えたか
41. 旧人・・・滅び去った人類の兄弟
42. 現代人・・・言語の発明
43. 出アフリカ・・・フロンティア精神に満ちた祖先
44. 人種・・・地球レベルでの遺伝的浮揚
45. ウルム氷期・・・大氷河と引換えに海岸平野が広がった
46. 海洋性洪水・・・楽園を追われた人類
47. 農業・・・生態系の総合理解
48. 都市・・・気候の寒冷化は闘争を生み出す
49. 金属・・・硬さと柔軟性
50. 文字・・・文明の立役者
51. 歴史・・・正当性や正統性の根拠
52. 宗教・・・個人の発見
53. 帝国・・・傑出した個人の活躍
54. 一神教・・・初めがあり、終わりがある
55. 国造り・・・国家組織の普及
56. 世界帝国・・・大陸の端と端をつなぐ
57. 鎖国・・・成熟社会の一面
58. 国民・・・民主国家の誕生
59. 現代文明・・・この200年での進行中の変化
60. 産業革命・・・鉄に閉じ込められた炎
61. 化学・・・高い生活水準を支える
62. 食料・・・腹が減っては文明が維持できない
63. 肉体・・・あるがままから自己管理する対象へ
64. 都市化・・・理想の生活を実現するために
65. 職業・・・ライフスタイルを定義する
66.インターネット・・・膨大な情報からなにが抽出できるか
67. 未来・・・人類はどこへ行くのか
68. 参考文献
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簡単な年表
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最初、人間が窺い知れぬ状態があった。
今から137億年ほど前、真空の揺らぎから宇宙が誕生した。宇宙はインフレーションにより急膨張し、過冷却状態になった。そのときに開放されたエネルギーで宇宙は高温で高密度な状態になった。宇宙は高速で飛び交い、エネルギー交換をする素粒子(クオークとレプトン)に満たされていた。きわめて高温であったことから、火の玉に例えられる。1点から膨張したことから爆発に例えられる。インフレーション以後、インフレーション以後、空間の膨張は一定の速度で進んだと考えられる。最近、膨張が加速していると観測されたため、新たにダークエネルギーの概念を導入して説明しようとしている。 膨張のスピードから計算される現在の宇宙は半径 470億光年。137億光年より先では空間は、光速を超える速度で膨張し、一番外側は光速の3倍以上である。
粒子の誕生とともに力 (相互作用)も誕生したと考えられている。まず、出現したのは重力である。誕生の10の-38乗秒後と推定されている。ほかの相互作用が光子やグルーオンなどの素粒子の交換で伝達されることから重力を伝達する粒子はグラビトンと呼ばれている。すべての素粒子に引力(万有引力)として、遮られることなく無限遠まで働くため、マクロの世界を支配している。地球、太陽、銀河系などの天体の運行をつかさどり、巨大な宇宙の構造を作り出している。 次に現れたのはグルーオンにより媒介される強い相互作用と電弱相互作用(弱い相互作用と電磁気力)と呼ばれる2つの力で、誕生の10の-33乗秒後と推定されている。誕生の10の-13乗秒後には弱い相互作用と電磁気力に分かれた。弱い相互作用は伝達距離が極めて短いために、日常の世界で、その影響を見ることはない。 誕生の10の-13乗秒後にはヒッグス粒子の場に満たされ、ヒッグス粒子と相互作用する素粒子(光子以外)に質量が生まれた。
誕生の10の-6乗秒後、クオークがグルーオンによりまとめられ、陽子や中性子が作られた。陽子と中性子は中間子を媒介として原子核を形成した。強い相互作用、グルーオンは陽子、中性子、原子核に閉じ込められ、日常の世界で見ることはない。 さらに温度が下がって、誕生の10の-4乗秒後、宇宙には陽子と中性子、それらの結合した原子核、電子、光子、ニュートリノが基本粒子として残された。1分後には陽子と中性子が結合した重水素原子核が安定化して、その後、核融合が進み、軽い原子核が合成された。初期の宇宙では陽子が1個の水素と、陽子が2個のヘリウム原子核が大部分を占めている。
ビッグバンの3分後、水素、ヘリウムの原子核が形成された。水素の原子核は陽子1個と中性子を0、1、2個含む3種類がある。また、ヘリウムの原子核は陽子2個と中性子2個を含む。宇宙は原子核と自由電子に満たされ、プラズマ状態となった。宇宙誕生から約 38万年後に温度が約4000℃に冷えると、電磁気力により原子核の周りに電子が捕らえられ、原子が形成された。これを宇宙の中性化と呼ぶ。すると、自由電子に吸収されたり放出されたりして直進できなかった光が妨げられずに進むことができるようになり、宇宙は透明になった(晴れ上がり)。このとき宇宙を満たしていた光が2.7Kの宇宙背景放射と呼ばれる。当時の宇宙の大きさは現在の1000分の1と見積もられる。
高温の水素とヘリウムガスは激しく運動し、局所的な濃淡を作った。約2億年のうちにガスが濃い部分が自らの重みで収縮し、多数の恒星が誕生した。大量の水素が星に集められ、また、宇宙空間に残された水素が星からの紫外線によって電離した。この過程を宇宙の再イオン化と呼ぶ。
現在、観測できた最古(最遠方)の銀河は宇宙が誕生してから約 10億年(130億光年先)のクエーサーである。クエーサーは巨大ブラックホールに大量の物質が落ち込むために強力な電磁波が発生する天体である。クエーサーの分光学的観測結果から、鉄が見つかった。鉄は恒星の核融合によって合成される。宇宙誕生後わずか20億年という初期宇宙では、質量分布の濃淡はまだかなり小さかったと考えられるが、すでに、銀河の大規模構造が発見されている。おそらく、大規模構造は時間とともに成長し、銀河団が集まった大構造へと発展してゆくと考えられる。また、同じころ、質量が銀河とほぼ同じ巨大ガス天体も多数見つかる。巨大ガス天体は多数の星を生み出し、銀河へと凝縮するのであろう。
第一世代の恒星群は、宇宙が現代に比べて小さく、材料となる水素やヘリウムの濃度が高かったので、質量も桁違いに大きく、中心部は高温に達し、核融合反応が速やかに、かつ、大規模に進行した。水素原子核、ヘリウム原子核を材料に、安定な鉄原子核までの多種類の原子核が大量に形成された。 数億年で第一世代の恒星群は超新星爆発を起こし、巨大なブラックホールになった。超新星爆発のエネルギーは核融合反応で作り出した比較的軽い原子核を宇宙空間に放出した。また、鉄より重い原子核を作りだした。超新星爆発の爆風(重力波)は周りのガスを吹き飛ばし、恒星間ガスを圧縮し、多数の第二世代の恒星を生み出した。第二世代の恒星が超新星爆発の最後を遂げた後にできた恒星は比較的金属元素を多く含み、第三世代の恒星と呼ばれる。太陽は第三世代である。第二世代と考えられる恒星は、現在、長寿命であるが金属元素の乏しい恒星として銀河周辺にある星団などで観測される。
恒星の誕生に必ずしも超新星爆発は必要ではない。巨大な分子雲の中央に大質量の恒星が誕生すると、その光が周りの分子雲に圧力を加えたり電離させたりして濃度の高い分子雲を作り出す。分子雲は恒星に凝縮され、光はさらに遠くまで届く。この繰り返しで、特徴的な恒星集団の構造(OB association)が形成された。
宇宙にある無数の銀河は均一に分布しているのではなく、個数密度の高い場所や低い場所がある。1000万光年程度のスケールで銀河は集団を作っている。太陽系の属する天の川銀河は局部銀河群に属する。銀河群や銀河団(群より大きい)はさらに超銀河団を形成している。天の川銀河はおとめ座超銀河団に属する。超銀河団は数億光年の大きさを持つ。宇宙には逆に銀河の存在しない大きな空間がある。銀河の分布を調べると、泡状構造となり、銀河は泡(銀河が存在しない空間)の周囲に集まっていることが判明した。宇宙の大規模構造とよぶ。
宇宙の大規模構造ができるには、目に見える恒星の物質だけでは重力が足りず、時間がかかりすぎる。目に見える物質より数倍の質量の暗黒物質(ダークマター)を仮定し、恒星がそこに引き寄せられて星や銀河が形成されたという仮説が生まれた。暗黒物質は重力によって、その背後にある銀河の形がゆがんで見える重力レンズ効果という現象を利用して間接的に質量や分布を測定する。宇宙における暗黒物質の大規模分布を示すマップをみると、暗黒物質のフィラメントの網目状構造が時間の経過とともに成長し、巨大なボイド(空洞)で隔てられているようすがみられる。宇宙レベルの地図は遠いところは過去を示すので、時間的な変化も一望できる。暗黒物質の網目構造に沿って銀河が集中し、暗黒物質の中で銀河が育ってきたという銀河形成論を観測的に検証できた。
宇宙の歴史を通じて恒星に転換した物質は宇宙を構成する物質の6分の1に過ぎない。暗黒物質は光を発しないために、我々の眼には間接にしか見ることができない。巨大な分子雲の中に誕生したブラックホールの重力場は、まわりの恒星を従え、星団を作った。無数の星団はお互いの重力ポテンシャルの凹みに沿って近づいたり、遠ざかったりした。分子雲も同時に運動したが、星団よりはるかに大きいため、融合しやすい。分子雲(暗黒物質?)はブラックホールや星団を包み込んでいる。分子雲の融合は星団をガイドして融合させ、銀河を作った。星団が融合するときに潮汐力により様々な方向に恒星が振り回され、やがて中心核である超巨大ブラックホールを中心に回転する楕円型や渦巻き型銀河として落ち着いた。この過程は100億年ほどの時間が必要で、現在も進行中である。太陽系が属する銀河系(天の川銀河)の中心核ブラックホールは半径900万キロで太陽の300万倍もの質量をもつ。
ほとんどが水素とヘリウムのガスは重力で収縮し、中心部の温度が1000万度を超えると、水素の核融合反応が始まり、恒星として輝き始めた。宇宙で最初の恒星はビッグバンの直後に形成された最も軽い3種類の元素、水素 (原子番号1)、ヘリウム (原子番号2)、リチウム (原子番号3)のみを含んでいた。
水素の原子核は陽子である。2つの陽子が衝突すると、2つの陽子のうち、一つが陽電子とニュートリノを放出して中性子に変わる(ベータプラス崩壊)。陽電子は周囲にある電子と対消滅して熱エネルギーに変わる。こうしてできた重水素原子核は陽子と中性子からなる。重水素原子核に水素原子核である陽子が結合するとヘリウム3原子核(陽子2個と中性子1個)ができる。ヘリウム3原子核同士が核反応してヘリウム4原子核(陽子2個と中性子2個)と、2個の水素原子核(陽子1個)ができる。ヘリウム原子核は燃えかすとして恒星の中心にたまり、その外で水素は核反応を続けた。水素原子核が少なくなり、核反応が弱くなると、温度が下がるため、中心核が重力で収縮し、温度と圧力が上昇し、ヘリウムの核反応が始まる。ヘリウム原子核3個が炭素原子核(陽子数6個)1個に変わる。さらに、炭素原子核とヘリウム原子核から酸素原子核(陽子数8個)ができる。続いて、炭素が核反応を起こす。炭素原子核2個からネオン(陽子数10個)、ナトリウム(陽子11個)、マグネシウム(陽子数12個)等の原子核ができ、さらにいろいろな核反応がおきてケイ素(陽子数14個)、鉄(陽子数26個)などの原子核ができた。
恒星の内部で主要な核反応が終わり、熱の発生がなくなると恒星の芯は収縮する。収縮すると温度が上がり、次の核反応が始まる。段階的に構成の内部は高温・高圧になる。あとになってできる原子核ほど重いので中心にたまり、年老いた恒星の内部は、鉄を中心に何層かの層状になった。原子番号が大きくなると、原子核どうしのクーロン斥力 (同じ電荷を持つ粒子が互いに反発する力。原子核は陽子のプラス電荷を持っている) が大きくなるため、核融合が起こりにくくなる。核融合で生成し得る元素は原子番号26である鉄が限界である。
鉄より重い元素は、中性子の吸収により生成される。中性子は電荷を持たないため、クーロン斥力が働かず、周囲の原子核と衝突して吸収されやすい。中性子が過剰となった原子核は不安定となり、過剰な中性子が電子とガンマ線を放出して陽子となり、ひとつ原子番号の大きな元素となる。重元素の生成プロセスは、大質量星が寿命を終える際の大爆発である超新星爆発の際に急激に起こる。
あまり質量の大きくない恒星は、外層部のガスを放出したのち芯が収縮して白色わい星になる。より質量の大きな恒星は中心の温度が数十億度に達したところで強い重力による圧力で鉄の原子核が潰れて中性子の塊に変わる。中心部が潰れるため、その周囲にあった物質は急激に中心へ落ち込み、衝撃波が発生して大爆発を起こす。超新星爆発である。恒星を形作っていた大部分が宇宙空間に吹き飛ばされる。芯は中性子星となる。さらに巨大な星は、大質量のために中性子の塊も重力崩壊し、ブラックホールとなる。
天の川銀河は、太陽系の属している天体の集団で、球状星団、散開星団その他恒星の集団や星間物質を含む1個の小宇宙である。大部分の恒星が円盤を形成する円盤部にあり、中心の膨らんだバルジ部の恒星のほうが渦巻き腕部の構成より古い。銀河系の中心には強い電波源があり、「いて座A」と呼ばれる。巨大ブラックホールである。周りには星間物質が高密度で集中しているので光学的に見ることはできない。円盤部の外側に銀河系を球形にとりまくハローと呼ばれる領域がある。天の川銀河を形成する星の中で最も古い天体はこの領域に散在する球状星団である。これらの星は鉄などの重い元素を太陽の数百分の1程度しか含まない種族IIに分類される。円盤部は、主系列星、ケフェウス型変光星などの第T種族に属する星や暗黒星雲が占めている。
くじら座の11.7等星は、鉄の存在比は太陽の 800分の1しかない種族IIの非常に古い星だが、珍しく放射性元素のトリウム232やウラニウム238が検出できた。高分散スペクトル観測により、相対存在比などから年令は125億年±33億年と決定された。したがって、銀河系もその当時に形成されたと考えられる。
銀河を形成する恒星で最も多いのは赤色矮星と予想される。大きさは太陽の直径の1/3以下で、表面温度は3500度程度の暗い星である。水素の核融合速度が遅く、寿命が非常に長い。肉眼で見えるものはない。太陽から10パーセク(33光年)内の348個の天体が調べられたが、そのうち、239個(約69パーセント)は赤色矮星であった。また、恒星の半分は連星である。連星の場合、惑星を含む恒星系の進化は太陽系のような単一星とどう違うのだろうか。通常、コンピュータシュミレーションが研究に使われるが、2つの連星の間で物質のやり取りがあるため、複雑で解析途中のようだ。
恒星以外の自ら光を出さない物質は見え方によって散光星雲、惑星状星雲、暗黒星雲などに分類される。主にガスやチリである。通常の宇宙空間に対して、100倍以上の密度をもつと星間ガスと呼ばれる。やがて自己の重力で圧縮されて核融合が始まり、星が誕生する。
太陽系は銀河面内にあり、いて腕とペルセウス腕にはさまれたオリオン腕の銀河中心側にある。銀河中心より3万光年。半径30光年の中にある、太陽と50ほどの太陽型の恒星が一緒に誕生したであろう。天の川銀河が誕生してから80億年が経過していた。
太陽系に存在する元素は、多い順に、水素、ヘリウム、酸素、炭素、窒素、鉄、マグネシウム、硫黄、アルミニウム、ナトリウム、カルシウム、ニッケルとなる。物質(質量)の大部分は太陽にある。上位の元素は恒星内部の核融合反応でできやすい元素(原子核)である。星間物質の雲には超新星爆発により作り出された多種類の重い原子も含まれていた。
太陽系の元となった星間物質の雲は少しずつ凝縮し、重心へ落下しながら渦を巻き、回転の中心に巨大なガス球が作られた。ガス球の中心部は圧縮されて温度が上昇し、臨界温度を超えると水素原子核の核融合が始まり、原始太陽となった。太陽を中心にガスと塵の雲が回転し、回転する力と重力との合成で物質は円盤状に集合し、降着円盤を形成した。ガスの大半は水素分子や一酸化炭素分子などの分子で占められた。全体の質量に対する割合としてはわずかであったが、大量の数μm程度の微小な固体粒子もあった。ダストは、ゆっくりと集合し、粘着力や非弾性衝突により小さな塊をつくり、直径が大体10 km程度の大きさの微惑星になった。微惑星は太陽の周りを公転しながらお互いにぶつかり、くっついたり、衝突の衝撃で壊れたりしながら、成長した。微惑星は金属鉄のコアを持っていたらしい。
一部の微惑星のみが選択的に成長し、原始惑星となった。周囲に数多く残っている小さな微惑星をどんどん引き寄せて成長した。太陽の活動が活発になると、太陽風が発生し、太陽に近い領域からガスを吹き払った。原始惑星は周りの微惑星を集め尽くすと、惑星の質量増加は停止し、地球のような固い地面を持った惑星が誕生した。
原始惑星の質量が地球質量の約10倍を超えると、その惑星は水素ガスも重力により効果的に集めることができる。原始惑星系円盤内には、質量にして固体成分の100倍ものガス成分が存在するので、惑星の質量は一気に増大する。10地球質量程度の質量を持った核(コア)の周りに、コアの何倍もの質量のガスをまとった木星型の惑星が形成された。木星は核融合のスイッチが入るには体重が足りなかった。木星より外側には土星、天王星、海王星と、同じようなガス状の巨大惑星が誕生した。太陽系の外側ほど金属元素は少なくなり、氷と土などの軽い元素によって構成されると考えられる。
火星と木星の間で、大きな惑星に成長できなかった微惑星は、たくさんの小惑星にとどまり、小惑星帯となった。また、海王星の外側にはいくつかのガスを持たない天体があり、エッジワース・カイパーベルトと呼ばれる。周期200年以下の短い周期の彗星の起源がこのあたりにある。これらの天体をまとめて準惑星とよぶ。冥王星は準惑星とされた。太陽系の外側では太陽系初期の惑星形成はゆっくりと進み、その間に原始分子雲は蒸発してしまったため、これらの天体は惑星形成の途中で取り残されたようである。
隕石の年齢を調べることで、太陽系が生まれたのは46億年前と計算される。また、原始太陽系分子雲が縮み始めてから、太陽系ができるまでは1000万年から1億年と見積もられている。降着円盤から直径10km程度の微惑星が形成されるまではかなり早く、10万年程度と見積もられる。地球はその後、微惑星が集合して3000-4000万年かけて作られた。
原始太陽から1億5千万キロメートルのところを公転していた地球は他の惑星と異なった風貌を持つようになった。原始の地球の構成成分は現在の太陽系に漂う、惑星に吸収されなかった微惑星を調べることで推定する。具体的には隕石と彗星である。隕石のうち、惑星ができた当時から存在する最も古い隕石は炭素質コンドライトである。この隕石の化学組成は水素、ヘリウムを除いて太陽系の成分と同じである。鉄・ニッケルばかりでなく、かなりの量の水や炭化水素が含まれている。コンドリュールと呼ばれる小さな球状の粒子を含む。コンドリュールのできた年代は45.6億年前と測定されている。無重力の状態では、揮発性分子が集合してできた物体は球になると予想される。炭素質コンドライトは熔融・固化という熱変成を受けていない隕石と考えられている。
カイパーベルトにある岩石が海王星などの重力で撹乱され、彗星になる。同じメカニズムでカイパーベルトから木星軌道の内側にある小惑星帯にも岩石や天体が注入される。太陽に近づいたカイパーベルト天体は加熱され揮発性成分を失い、普通の岩石質の隕石になる可能性がある。また、この岩石の太陽への落下は現在も続いている。
現在の太陽系では彗星の長い尾は、地球軌道の辺りで水蒸気を含むようになる。しかし、地球が誕生した頃は太陽からのエネルギー放射が現在より少なかったので、地球の軌道付近の温度はもっと低く、微惑星は大量の氷や有機物を含んでいた可能性がある。太古の地球の地表は岩石と言うより、炭水化物を大量に含んだ泥であったかもしれない。
地球に落下する微惑星は衝突エネルギーにより融け、微惑星中に含まれていた水分や気体成分は一瞬にして蒸発した。現在の地球の半分くらいの大きさになると、重力は気体を逃がさない強さになり、大気の層ができた。原始大気による温室効果で熱が宇宙空間へ逃げる速度が遅くなり、地表は徐々にマグマに変わりはじめた。やがて、地表は煮えたぎるマグマオーシャンへと変化し、その深さは500 km、温度は千数百度に達した。マグマオーシャンの中で重い鉄などの成分は軽い岩石分と分離して、マグマオーシャンの底に溜まった。
地球の半径が現在の70%くらいになると、マグマオーシャンの底に溜まった重い金属は一気に中心へ落ちていき、核を作った。このときに開放された重力エネルギーにより地球は芯まで融け、軽い岩石成分(マグマオーシャンの部分)と金属核に分離した。
鉄などの重い金属の大部分が核として沈みこんだとすると、地表に残るのは酸素、炭素、窒素、マグネシウム、硫黄、アルミニウム、ナトリウム、カルシウムなどである。炭素、酸素、窒素は生物を構成する有機物を作る骨格を提供する。これらの元素は揮発性の分子を作る。原始大気を通過する間に隕石は熱せられ、二酸化炭素や水、窒素などの揮発成分は原始大気に離脱していったであろう。
地球の形成の最終段階で火星ほどの小惑星が衝突し、最後の10% の質量を提供したが、小惑星と地球の表層部分が地球周辺に飛び散った(ジャイアントインパクト)。ジャイアントインパクトでは岩というより大部分が岩石蒸気として飛び散ったであろう。それが再び集まって独立した天体として地球の周りを公転しているのが月である。小惑星の金属核は地球の核と合体したのだろうか。この事件後、地表が冷却されるまでほぼ3000万年かかった。月の誕生は太陽系誕生から4-5000万年頃とされる。
落下する微惑星は衝突エネルギーにより融け、微惑星中に含まれていた水分や気体成分は一瞬にして蒸発した。現在の地球の半分くらいの大きさになると、重力は気体を捕まえていられる強さになり、大気の層ができた。原始大気を通過する間に隕石は熱せられ、二酸化炭素や水、窒素などの揮発成分は離脱したであろう。原始大気による温室効果で熱が宇宙空間へ逃げる速度が遅くなり、地表は徐々にマグマに変わりはじめた。やがて、地表は煮えたぎるマグマオーシャンへと変化し、その深さは500 km、温度は千数百度に達した。マグマオーシャンの中で重い鉄などの成分は軽い岩石分と分離して、マグマオーシャンの底に溜まった。地球は星間ガスである水素を主体とする厚い大気(1000気圧?)をまとっていた。水素はマグマオーシャンと反応して酸化物を還元し、金属(鉄が主成分)と水蒸気を作り出した。時々落下する隕石がマグマオーシャンと大気を撹拌し、水素の消費を早めた。
地球の半径が現在の70%くらいになると、マグマオーシャンの底に溜まった重い金属は一気に中心へ落ちていき、核を作った。このときに開放された重力エネルギーにより地球は芯まで融け、軽い岩石成分(マグマオーシャンの部分)と金属核に分離した。地表には酸素、炭素、窒素、マグネシウム、硫黄、アルミニウム、ナトリウム、カルシウムなどが残された。炭素、酸素、窒素は生物を構成する有機物を作る骨格を提供する。これらの元素は揮発性の分子を作る。 地球の形成の最終段階で火星ほどの小惑星が衝突し、最後の10% の質量を提供した。小惑星と地球の一部が地球周辺に飛び散った。それが再び集まって地球の周りを公転するのが月である。この事件により地球成分の分離が一部リセットされた。この事件後、ほぼ3000万年で地表が冷却された。
まわりに吸収する微惑星が少なくなると、地球は徐々に冷え始めた。また、大気はマグマの温度から宇宙空間の温度まで温度勾配ができ、その勾配の中で激しい対流が発生した。
水蒸気は100 気圧のとき、絶対温度で650K(380℃)以下になると液体の水になることができる。この温度を水の臨界温度という。水は最初は気圧と温度が低い大気の高い位置で雨に変わり、地表に達するまでに蒸発した。大気が冷えるに従い、雨は徐々に低い位置まで達するようになった。原始大気が100気圧(ほとんどが二酸化炭素と考えられる)、地表が300℃ほどに冷えたときに最初の雨が地表に落ちた。地球が、その装いを他の惑星と変える決定的な事件であった。ここまでで、約4500万年が経過した。
雨は地表を効率よく冷やした。地表には玄武岩質の岩が作られ、地殻が形成された。雨には塩化水素が溶け込んでいたため、強い酸性であった。塩酸の雨水は地上の岩石と接触して、マグネシウム、カルシウム、アルミニウム、ナトリウム、カリウム、鉄などのイオンを溶かし出し、しだいに中和された。塩酸が中和されると、大気中の大量の二酸化炭素が原始の海に溶け込み、カルシウムイオンと結合し炭酸カルシウム(石灰岩)となって沈澱した。原始大気中に含まれていた二酸化炭素は10気圧ほどに低下し、二酸化炭素による大気の温室効果が和らいだ。大気成分の90%が二酸化炭素で、残りは窒素であった。
オーストラリアで見つかった30億年前に形成されたジルコン中に42億年前にできたダイアモンドの微粒子が見つかった。ダイアモンドはマグマオーシャンの中では形成されない。ジルコンは火山活動でできるため、地殻の底でできた42億年前のダイアモンドは10億年かけて地表近くに移動したはずである。42億年前のダイアモンドは当時、すでに地殻が存在したことを意味し、海と大気も存在したはずである。最古の大陸地殻は、およそ42.5億年前と推定されている。
海ができた頃の地球は厚い雲に覆われ、上空では太陽からの紫外線、宇宙からの粒子線、雷の放電により、水蒸気や二酸化炭素、窒素が反応性に富んだラジカルになり、化学反応で簡単な有機化合物が作られた。シアン化水素、シアノアセチレン、ホルムアルデヒドなどである。また、隕石や流星から有機物が供給されることもあった。これらの分子は雨粒に溶け込んで海へと落下した。この頃は陸地がほとんどなかった。これらの反応性の高い素材は高分子をつくり、原始の海に溶け込んで蓄積された。
約38億年前までは直径が数百キロの巨大な隕石が数回落下して、海が完全に干上がった可能性がある。月のクレーターを観測すると、ほとんどが約40億年前にできたこと、そのサイズ分布から火星と木星の間の軌道にある小惑星が集中的に落下してできたと推測される。この原因についてシュミレーションによる研究が行われた。約40億年前は、天王星と海王星が形成された時期とされる。その影響で木星と土星の軌道がずれ、小惑星の軌道も不安定になったと考えられる。惑星の軌道変化は小惑星の軌道を攪乱し、太陽系内にたくさんの小惑星が飛び交うようになった。今から約40億年前には、地球型惑星上に集中的な天体の落下が数千万年から数億年にわたり継続していたとされる時期であり、後期重爆撃期(Late Heavy Bombardment)と呼ばれる。
隕石が落下した後も無事に海は回復した。また、太陽は現在の70%程度のエネルギーしか地球に放射していなかった。この量だと、地球は全面凍結する。マグマオーシャンが冷却した後、ゆっくりと凍り、隕石の落下により急激に融け、また、時には完全に蒸発することを何度か繰り返したかもしれない。二酸化炭素の量が多ければ温室効果により、凍結に至らなかった可能性もある。
原始地球の海の深さはほぼ2000mと見積もられている。地球の表面はほとんど海に覆われ、その下に玄武岩質の地殻、海の上に厚い大気があった。地球内部のマントルはゆっくりと対流した。地殻はマントル対流に流されて割れ、プレートとなった。時々落下する巨大隕石は海を蒸発させ、地殻を突き破ってマントルの上層部を攪乱する。岩石は一時的に熔解し、マントルの中の物質が表面にくみ上げられ、近くの上にあった物質はマントルに埋め込まれる。隕石の衝突で海や溶岩は大気に飛び散り、大量のエアロゾルを生成し、大気と混合した。溶岩は海によって冷やされながら、海に様々な物質をもたらし、冷えた溶岩により玄武岩質の地殻が再生する。この大事件の間に新しい物質、複雑な有機物、化合物が生成したのではないか。
太古代のマントル対流は2層に分裂していた。上の層は厚さが670kmほどであり、そのなかでほぼ円形の乱流となっていた。地殻はマントル対流とほぼ同じ大きさである直径が 700kmほどのプレートに分かれていたと予想される。地球表面全体には200枚ほどあった計算になる。プレートはマントル対流に乗って移動した。プレートがぶつかるところでは片方のプレートが上になり、もう一方がマントルの中に沈みこむ。沈み込み帯と呼ばれ、弧状列島が成長した。マントルが湧きあがるところではプレートが生成する。海嶺と呼ばれる。 原始の地球では弧状列島、海嶺の総延長は現代の20倍近くあったであろう。
プレート構造が発生したのは地球の歴史の初期か、あるいは45億年におよぶ歴史が半ば過ぎてからなのか、議論が続いていた。地球のプレートテクトニクスのシステムによってできた岩で、今までに発見された最古の岩は38億年前のものである。海底が分裂するのに伴い形成された一連の岩が国際研究チームによりグリーンランドで発見された。したがって、プレートテクトニクスのシステムは比較的早い時期に始まったと考えられる。この岩はオフィオライトと呼ばれ、海洋地殻がそのまま地上に露出した特徴的な層構造をしていて、厚さは約10kmと海洋地殻の厚さであり、様々な種類の火山岩を含んでいる。
海嶺では湧きあがるマントルにより海の底に割れ目ができ、湧き上がるマントルからマグマが供給され、玄武岩質の地殻が形成された。海嶺ではマントルからもたらされる熱で海底から熱水が噴出し、硫化水素、メタン、水素などの還元ガスや鉄やマンガンなどの金属硫化物が大量に海に供給された。
沈み込み帯では海溝が形成された。沈み込んだプレートは水を含んでいるのでマントル中で比較的低い温度で融け、マグマとなって噴出し、大量の花崗岩を含む海底火山を作った。やがて、プレートの境界に沿って造山帯ができ、島が発達した。おそらく、島は弧状となったであろう。火山活動は地中から硫化水素、メタン、水素などの還元ガスを海中や大気中へ放出した。沈みつつあるプレートは弧状列島にたくさんの付加物を残した。海底に有機物の沈殿があったとしても地中深く埋没することは稀であった。
プレートの移動速度が1年間に3cmとすると、約2000万年でプレート1枚はマントルへ入り込む。現在のプレートが沈み込む速さはおよそ毎年0.5立方キロメートルである。
原始地球には陸地は島程度と予想される。プレートが衝突するところでは大規模な造山運動が起こるが、その証拠は残されていない。陸地は大気の流れに影響する。陸地が少なければ、雲は現在のように錯綜したパターンを示すのではなく、木星や土星の縞模様のように自転の影響で規則正しく並んでいたであろう。海流も同じように規則正しく、層状に並んでいたのではないか。マントル対流は地球の自転の影響を受けただろうか? 堆積岩は作られたとしてもわずかである。
現在の完成された生命システムから見ると、無機物から生命体を作り出すには最低でも数百の機能するタンパク質を作り出し、それぞれにその触媒作用や構造について進化する必然性を用意しなければならない。また、最初の遺伝情報分子がRNAだと仮定すると、タンパク質の情報がRNA分子に書き込まれた必然性を考えなければならない。部品がそろったとしても、それらを混ぜても生命体はできない。現在の生命の起源に関する研究は生体を構成する分子が無生物的にどのように合成されるかが重要なテーマである。
生物体を造る生体高分子は、炭素、窒素、水素、酸素を主要構成元素とし、硫黄、リンなどを含む。炭素、窒素は生体高分子の骨格を構成する。炭素は共有結合を作る4つの腕を持ち、窒素は3つの腕を持つ。酸素は2つ、水素は 1つの腕を持つ。これらの腕を完全につなぎ合う形で分子が構成される。
低分子の生体関連分子、アミノ酸や核酸分子が合成されたところは、3つくらいに分けられる。宇宙と、高空と海底である。おそらく前二者は有機物の供給源であり、生命体の誕生は海底であっただろう。
いずれも、有機物の原料とエネルギーが不断に供給され、合成された有機物はその場から運び去られて、どこかで蓄積される必要があった。合成の場は同時に分解の場であることが多いからだ。有機物を作るには酸素が邪魔で、酸素と分離し(還元し)、酸素を運び去る仕組みが必要である。また、高温でアミノ酸や核酸は分解されるので、合成時には高温であっても分解される前に冷却される必要があった。蓄積された穏やかな場所で生命体は合成されたであろう。
宇宙には大量の有機物の原料が存在した。太陽系の誕生当時は太陽の活動が弱かったため、地球軌道付近まで氷や揮発性有機物が存在したに違いない。微惑星が形成されて光が通るようになると、炭素質コンドライトと同じような成分であった微惑星に含まれる炭素や水は太陽からやってくる紫外線や、粒子線で活性化状態に変化し、簡単な構造の有機物が合成された。宇宙空間での合成は、高エネルギー反応なので逆反応を考える必要がない。微惑星が集合して地球を形成したときに有機物はさらに水や他の有機物等と反応して複雑な化合物になった。合成された有機物がマグマオーシャン時代をどのようにして熱分解されないで生き残れたかを説明しなければならない。
また、マグマオーシャン後に落下したとしても、大気との摩擦熱で同じように熱分解されるのではないか。温度が低いうちに高空で隕石から気化した有機物は分解されずに大気中に放出された。また、高空では有機物が合成されたのではないか。当時は地球金属核の対流によるバン・アレン帯が存在せず、太陽からやってくる荷電粒子は大気の上部を直接叩いていた。高エネルギー陽子を一酸化炭素・窒素・水からなる原始地球の大気を模した混合物に照射すると、多種類のアミノ酸などの生体分子がよく生成する。
上空で合成された重い有機物は凝縮すると落下し、大気循環により地上へと運ばれた。水に溶けやすい有機物は雨に溶け込んで海に達した。雨粒で落下する間、また、雲として漂う間に水分が蒸発して、有機物が濃縮され、高分子が合成された可能性がある。
海嶺に形成される熱水噴出孔は有機化合物生成炉として優秀である。高温(200- 350℃)、高圧(200-300気圧)の環境であり、大量の熱エネルギーが絶えず供給されている。周りの冷海水が地殻の裂け目からしみ込んで熱せられて上昇し、冷海水の中に噴き出し、冷却されるというサイクルができている。高温で合成された有機物は直ちに冷却されるので、熱による分解を避けることができた。海水が循環するので、流れに乗った低分子は何度でも熱水噴出孔を通過して成長するチャンスが与えられる。熱水噴出孔の海水は、鉄、マンガン、銅、亜鉛などの金属イオンを普通の海水に比べて1000倍以上多く含んでいる。金属イオンは高温、高圧の熱水環境下で有機物を重合させる触媒として働く。
最初に作られた低分子の有機化合物としてアミノ酸や核酸塩基がよく研究されている。これらは生物の重要な構成要素だからである。
アミノ酸の生成はアルデヒドとシアン化水素、アンモニアを出発材料とする反応が有名である。そのほかにも、核酸塩基の分解なども考えられるのではないか。 核酸塩基のひとつであるアデニンは六角形と五角形がくっついたヘテロ環構造を持つ。アデニンはシアン化水素とアンモニアから比較的簡単に合成される。アデニンのように窒素を含むヘテロ環分子では水素結合でお互いに緩やかに結合し、また、金属と錯体を造りやすい。分子内に二重結合を含むが、二重結合はラジカルと反応して高分子化しやすい。
ホルムアルデヒドからは簡単な構造の糖類が得られる。ホウ酸系鉱物が触媒として働く。糖には同じ分子でも多くの立体構造があるが、なかでも、フルクトース、グルコース、マンノースが安定であり、生命起原時に重要な役割を果たしたと考えられる。
他の分子も多数合成されたと考えられるが、あまり研究されていないようだ。分子量が1000くらいの有機化合物は生物界から多種類、大量に発見される。有用物質も多く含み、例えば抗生物質などが含まれる。粘土鉱物を触媒として表面に吸着したアミノ酸や、ヌクレオチドが高分子化する研究結果もあり、重要な高分子生成メカニズムの一つであろう。
有機物は地下の高温・高圧状態下で脱水反応を受け、不飽和炭素結合を大量に含む石油のような物質に変わる可能性がある。石油は生物由来とされているため、非生物由来の起源はあまり研究されていない。まとまった量の有機物が埋没すれば、地下の高温と圧力で石油状の低分子、すなわち、反応性に富み、容易に高分子化する有機物が生成した可能性もあるだろう。
地球が現在の質量に達した46億年前には海ができて、有機物が蓄積する環境が整えられた。しかし、直径が数百kmの巨大隕石の衝突で海は何度か干上がった(後期重爆撃期)。海が戻るまで1000年ほどと計算されている。この事件では高分子有機物質は熱分解されたと考えられるが、落下地点の地球の裏側では海水中の有機物が濃縮され、有機合成反応が促進された可能性はないだろうか。
38億年前ごろ?には最後の巨大隕石が海を干上がらせたが、それ以降は海が安定した。
生命活動と呼べる化学反応の複合体ができるためには、有機分子が濃縮される必要がある。
その1つのメカニズムが熱水噴出孔である。噴出孔の熱源で海水が熱せられ、上昇流となる一方、周りの海水が噴出孔へと地下水として吸い込まれる。このサイクルによって、海水が海底の泥や岩石、地殻で濾過されるとき、高分子化合物は海底に蓄積した泥や砂と相互作用しながら沈殿した。
泥や砂粒の表面は分子が吸着する足場を提供し、高分子合成を促進する化学反応を触媒した。反応の実体は泥や砂粒の表面に並んだ金属触媒だったかもしれない。金属触媒を含んだ有機物の塊かもしれない。高分子の有機物は集合し、不定形の有機構造物ができた。硫化鉄は、無機分子の結合によって有機分子が形成される反応を促進する。海底から噴出す熱水に含まれる硫化鉄は海底に沈殿し、鉱石となる。その表面には細胞サイズの蜂の巣状の穴が開く。
誕生間もない地球は濃い大気を持っていたことから、大量のエアロゾルが空気中を漂っていた。地球の上空では太陽からの紫外線、稲妻、宇宙線の放射などで大量の反応性の高い低分子ができた。高空を漂うエアロゾルでは反応性の高い分子が化学反応を起こして高分子となり、雲の水粒子に溶け込み、雨粒となって地上に落下する間に水分が蒸発し、高分子からなる有機物は濃縮されて、絡み合って複合体をつくり、海に落下し、生命の材料となる高分子を供給した可能性もあるのではないか。(この項と次の項は筆者の仮説)
エアロゾルは雨粒だけでなく、強風で煽られた波のしぶきからも発生する。海底で合成された有機物のうち、海水に溶け出したものは、はるばると海面まで旅をして、しぶきとなって高空に舞い上がり、そこで出会った新たな有機物と化学反応して、不溶性の微小な有機物の塊と化し、海面に落下して沈み、また、噴出孔へと戻った。このサイクルが海ができてから最初の生命活動ができるまでの約10億年間続いて有機物が熱水噴出孔付近へ濃縮された。
熱水噴出孔は孤立して存在する。そしてそれぞれの熱水噴出孔でバクテリアのゲノムを網羅的に調べてみると、熱水噴出孔によってゲノム構成は異なっており、独自の生態系を持っていると推定される。おそらく生物系の独自性は太古の地球でも同様であったろう。
海水中の重金属濃度や泥の粒子として供給される鉱物には地域差があったため、地球上の有機物の集積には地域による特徴があったに違いない。海底に蓄積された大量の有機化合物の固まりはプレートの移動とともに運ばれて他所の有機物の泥と混合された。また、沈み込み地帯に付加物として残された。初期の沈み込み帯には海底火山があり、熱水噴出孔と同じメカニズムで有機物合成を促進したかもしれない。さらに、たまに落下する巨大隕石はプレートを破壊し、テクトニクスの運動を変え、有機物を混合した。(この項は筆者の仮説)
広大な海洋に島弧火山列島が出現し始めると、海流が堰き止められることになった。今まで表面と海底で独立に循環していた海水が、弧状列島のところで沸きあがり、また、沈みこんだ。地球表面で緯度に沿った層流なっていた海流がせき止められ、極地と赤道付近の海水とが混合された。海水の混合は、巻き上げられた有機物の混合でもある。時々、隕石の落下により巻き上げられて急激な撹拌が起こった。
後期重爆撃期以後の時代で生物が利用できそうなエネルギ−源は、熱水噴出孔から供給される熱エネルギーや太陽光エネルギー、地球の構成成分を利用した化学エネルギーである。これらの組合せで維持可能な生命反応が組み立てられたはずである。まずは触媒となる有機高分子の合成である。
有機物を高分子に加工した触媒は金属や鉱物の表面であったが、やがて、有機高分子そのものが触媒作用を持つようになった。タンパク質や核酸を利用した洗練された生体高分子システムは、おそらく、初期の地球ではほとんど存在していなかったはずだ。アミノ酸や核酸は分子量が100程度、その後は分子量が1000程度の多様な有機化合物が合成され、蓄積された。一つの分子の中に複数の官能基を含むこれらの分子は集合し、新たな化学反応の土台となったであろう。複数の低分子と弱く結合し、低分子間の共有結合の形成を促進する。そのような高分子は偶然に作られたであろう。
重金属錯体の触媒で二酸化炭素と水素が反応するとホルムアルデヒドができる。核酸塩基などヘテロ環分子は紫外線を吸収して活性化状態になる。核酸塩基などヘテロ環分子がたくさんつながった分子は可視光で活性化される。たとえば、葉緑素(クロロフィル)や血色素(ヘム)は金属イオン(クロロフィルではマグネシウム、ヘムでは鉄)にヘテロ環分子が配位し、錯体を形成した分子である。原始の地球でも重金属イオンとヘテロ環分子で構成された錯体が誕生し、太陽光で活性化し、金属イオンの触媒作用で水と二酸化炭素からホルムアルデヒドが作られた(この辺は想像)。
ホルムアルデヒドは反応性に富む物質で、それ自身で結合してより大きな分子、パラホルムアルデヒドや糖になる。水素結合を作るような分子、糖、タンパク質、核酸など、生物の体を作る分子はホルムアルデヒドと反応し、2つの分子が結合される。光エネルギーを使って二酸化炭素からホルムアルデヒドを作り出すヘテロ環-重金属イオン錯体は、生産物であるホルムアルデヒドで連結して安定し、大量に蓄積されたのではないか。この過程は、グルコースを作らないまでも、二酸化炭素の同化反応であり、有機物を安定供給できるだろう。
一方、活発な熱水噴出域ではマントルから供給される硫黄や重金属イオンなどを利用し、原始的な炭酸固定が行われた。こちらの方が現在の光合成のシステムに近く、詳細な研究が行われている。
数多くの化学反応が発生したが、偶然にできた自分自身を大量に作りだす自己触媒能力を持った分子は大量に蓄積された可能性が高い。触媒反応が連結して、ポジティブフィードバック反応経路が生み出された。
あちこちで独立に誕生した触媒は海洋プレートとともに移動し、混合された。また、海底熱水噴出口で誕生した原始代謝の塊が、湧昇流にのって海面へ上ってきて、ヘテロ環による光合成系を取り込み、硫黄-鉄クラスター還元反応系とカップリングさせた。宇宙線や紫外線が降り注ぐ危険な浅瀬ではあったが、光エネルギーを利用して有機物を作り出すことができ、また、高温で機能するための硬い分子装置は必要なく、有害な紫外線から体を守る色素(ヘテロ環化合物)は比較的ふんだんに利用できた。(この辺は想像)
発達した触媒作用が混合することにより、反応経路の自己触媒作用が促進された。自己触媒は化学反応により己の数と量を増し、材料がなくなれば、活動を停止してその場に吸着・沈殿した。長い年月の間に、種々の化学エネルギーや物質を取り込む反応経路が物理的に集合したセンターが形成された。とにかく、生き残った触媒は自己触媒作用を持つ化学反応である。センターは擬似的な膜構造をもち、たゆまず体積を増す能力ができた。
今回は全編が岩田の仮説である。
太古代での化学進化は規則的な結晶(鉱物の表面)に結合した低分子化合物が線上に結合したポリマー(直鎖状ホモポリマー)と、アミノ酸、核酸塩基、糖、脂肪酸、炭化水素などの低分子有機化合物やそれぞれがランダムに結合した水溶性の中型分子を生み出した。それぞれの材料は海や空で窒素や二酸化炭素から供給される低分子化合物であり、常時、供給された。また、直鎖状ホモポリマーや中型分子が分解されることでも低分子化合物が供給された。
直鎖状ホモポリマーには中型分子が規則正しく結合し、巨大な複合体を作り、海底に沈殿した。多くの中型分子と結合できる直鎖状ホモポリマーは合成の場から中型分子により剥がされ、海底へ移動し、もとの合成の場では新たな直鎖状ホモポリマーが合成された。この繰り返しで多種類の直鎖状ホモポリマーが供給されるようになった。
巨大な複合体はいくつかの自己触媒的な合成ユニットと出会い、それを取り込んだ。たとえば、酸化還元中心として機能する鉄硫黄(Fe-S)クラスターである。このクラスターは硫黄細菌をはじめ、多くの生物が利用している。呼吸、化学的炭酸固定、光合成、窒素固定を行う酵素で電子伝達を担っている。二酸化炭素を固定するための水素は硫化水素から供給される。また、擬似光合成を行うヘテロ環金属イオン複合体もひとつのユニットであろう。
複合体の大きさはウイルスサイズからごみサイズまでいろいろであったと思われる。現在の地球表面にあるすべての有機物を海水に溶かしてかき混ぜれば同じようなスープができるであろう。複合体は海の流れに漂い、地球中を旅した。時には海底に沈殿し、岩にくっつき、お互い混じりあい、新たな化合物が複合体に追加されたりした。その過程で、複合体の中心になる直鎖状ホモポリマーは「arche-genome」に、中型分子は構造や被覆、触媒機能を持った「arche-protein」へと洗練された。
やがて、arche-genomeはRNAに、arche-proteinはタンパク質となり、構成ユニットであるヌクレオチドやアミノ酸とともに生命体としての再生・複製機構を生み出すこととなった。すなわち、遺伝子機能としては、RNAにヌクレオチドを付け加えるもの、合成系としてはタンパク質にアミノ酸を付け加えるものなどができたはずである。RNAは相補関係により、特定の塩基を付け加える性質もあった。システムはやがて洗練されてRNAは複製情報を形成し、タンパク質はRNAと共同して複製装置を担うことになった。
最初は、被膜は穴だらけ、泥や砂の表面にへばりついた構造体ではあったが、膜の外の物質を取り込んで自身の構成成分を複製し、大きさを増して成長し、適当にちぎれて分裂した。そのときに生合成に必要な分子装置も2つに分かれた。「arche-cell」である。
参考になる実験がある。リポソーム中にRNAを自己複製するように整えると、RNAが複製するにしたがって、内容積が増す。当然、膜成分も増えなければならないが、この系には膜の合成システムはない。そのときの膜成分は複製していない遺伝子を含むリポソームから奪うようで、この場合、特に酵素反応を必要としない。複製が進むにつれ、複製分子を含むリポソームは巨大化し、やがて、2つに分裂する。このとき、特に複製装置は必要ない。
また、タンパク質分子は、10〜20アミノ酸程度の自律要素(Autonomous Element)と残りの受動的依存的要素から構成される構造体とする考え方がある。化学進化の初期に形成された原始タンパク質は、小さくかつ安定なものが有利であったはずなので、自律要素は原始タンパク質のなごりではないか。この頃のarche-cellは、不完全な細胞膜の中にわずかの遺伝情報分子を持ち、増殖に必要な代謝過程の一部分だけを担うようなものだった。
不完全なarche-cellが多数類集合することで、必要な代謝産物を作り出し、交換して生存した。原始的な細胞は集団をつくり、共同体としてゆるく結合していたはずである。一つの構成細胞の新発明はその細胞だけでなく、集団全体の能力をアップした。共同体は、それぞれの細胞単位が複製し、適当にちぎれて分裂し、数を増やした。
地球誕生は46億年前。巨大隕石の襲来(後期重爆撃期)がおさまり、大気や海が安定したのは38億年前。最初の堆積岩が確認されたのは38億年前。最古の生物由来と思われる炭素成分はグリーンランドで38億年前の石から抽出された。岩田の考えではこの炭素成分はarche-cell由来である。そうすると、後期重爆撃期の間に、arche-cellは進化したと考えられる。光合成をする生物は質量数12の炭素を質量数13のものより優先的に取り込む。生物由来の炭素は13C/12C同位体比は無機物より小さくなり、区別される。
細胞の最古の化石は南アフリカのトランスヴァール州のフィグ・ツリー層、西オーストラリアのピルバラ層の堆積岩から発見された35億年前のシアノバクテリアと思われるものである。この最古の化石もarche-cellであろうか。Arche-cellだとすると、かなり完成されたものと考えられる。ピルバラの微生物の痕跡は、約32-35億年前の水深2000mに存在した海底熱水噴出孔周辺で形成された堆積岩に含まれていた。生命の海底熱水噴出孔起源説の有力な証拠である。
オーストラリアから見つかった35億年前の海の沈殿物の硫黄の同位対比を調べたところ、硫化水素を利用した化学合成(光合成に対応する)があったと予想された。
もう少し確かな証拠として、バイオマーカー(分子化石)の抽出がある。特に細胞膜の主要な構成成分である脂質は、生物系統に特異的な分子構造を維持したまま分子化石として残る。分子化石の検証では、真核生物は 27億年前、シアノバクテリアも27億年前には存在したと推定される。
以上のデータからの推測である。Arche-cellは、代謝産物や物質の交換を通じて、さまざまな生体高分子を統一していった。特に、arche-genomeの1次元的な特徴から、1次元的に主要な高分子が作られることになった。単純なユニットを数種類準備し、その一次元的な配列によって高分子としての機能が発揮され、構造体の骨組みを作る仕組みが整えられた。この高分子が不要になれば、合成のときの逆反応によってユニットに分解すれば、再利用可能である。この仕組みを整えたのが最初の生物である。
細胞を包む膜として、可塑性が高く、周りの水環境から隔絶した内部環境を確保するために、脂質二重層が選択された。膜の厚さもほぼ均一になるように脂質を合成する仕組みが整えられた。タンパク質と核酸と脂質と糖質という4大成分に結合し、化学反応を媒介する分子が燐酸である。燐酸は海水中の濃度はそれほど高くはないが、生物が積極的に活用する分子であり、その化学進化上の由来は謎のままである。
初期の生物の複製装置は誤りが多かった。大部分の間違いは生物の機能を損ない、生物は死んだが、物質として再利用された。時には間違いはプラスの効果を生み、その生物の機能を高め、その生物は他の生物より繁栄した。この場合、複製の間違いを進化と呼ぶ。間違いは一方で環境の変化に耐えて生き残る多様性を生み出した。遺伝子の複製の仕組みができて、生物は進化のスピードを飛躍的に上げた。
地球の歴史を通じて27億年前と19億年前頃が最も火山活動が活発だった時代である。火山活動により大量のマグマが作り出され、大陸の基盤となった。27億年前は上部と内部のマントル対流が合体した。また、19億年前は始めて超大陸が形成された。これに加えて、12億年前も一気に大陸地殻が形成された時期である。
太古代のマントル対流は2層に分裂していた。上の層は厚さが 670kmほどであり、乱流となっていた。対流はほぼ円形でその上にほぼ同じ大きさのプレートが乗っていた。プレートは直径が700kmほどで、地球表面全体には200枚ほどあった計算になる。対流がわきあがるところに海嶺が、沈み込むところに弧状列島ができた。海の深さはおそらく2km。大陸はなかったので、深さはほぼ均一であった。プレートの移動速度が1年間に3cmとすると、約2000万年でプレート1枚はマントルへ入り込む。そのとき、弧状列島にたくさんの付加物を残した。
最初は上部マントルの温度も高く、沈み込んだプレートは融けて(相変化して)マントルと同化した。次第に地球全体の温度が下がってくると、沈み込んだプレートの中心部は冷えたまま上部マントルの底にたまってきた。そしてついにもっとも大きな塊が一気に沈み込んで、内部マントルを通過し、金属核の上に達した。それが27億年前である。この冷たい塊のため、均一であった金属核に温度差が生じ、金属核内部に対流が生じた。対流は自由電子(電流)の流れを生み、地球ダイナモが誕生した。地球ダイナモは磁場を作り出した。 28〜27億年前、地球は強い磁気のバリアーに囲まれるようになり、生命に危険な荷電粒子を含む太陽風は地表に届かなくなった。浅い海に進出していたシアノバクテリアは太陽光エネルギーを利用して大いに繁栄した。
地球核のダイナモのスイッチを入れた地殻の塊の沈み込みは今まで2層に分かれていたマントル対流をひとつにした。そのために、地球内部のマントルからの熱が効率的に地表へ運ばれ、火山活動が活発化した。火山灰は太陽光を適度に遮り、防護能が十分発達していなかったシアノバクテリア(ラン藻)を保護し、より進んだ防護システムを作り出すための時間稼ぎをしてくれたに違いない。
また、マントル対流の直径が3000kmに大きくなったため、プレートのサイズも大きくなり、今まで点在していた弧状列島が集められ、次第に大きな陸地が形成されるようになった。さらに、小大陸の下に蓄積されたプレート塊が19億年前ほど前に巨大なコールドプルームとなり、地球表面に散らばっていた弧状列島を掃き集めた。軽い大陸を乗せたプレートがすべてコールドプルームに引き寄せられ、小さな大陸の衝突・付加・癒合がおき、最終的に巨大な大陸が誕生した。そのときに形成された初代大陸をローレンシア(ヌーナ)と呼ぶ。最初の超大陸は現在の北米大陸とグリーンランド、スカンジナビア半島、オーストラリア大陸、南極東部を合わせたものであった。面積は北米大陸ほどと推定されている。
27億年前の大異変の後、陸地が集まる間に浅海の面積も増加した。地磁気の傘で宇宙からのエネルギー粒子の襲来も阻止された。海面付近まで進出してきた光合成バクテリアが本格的に繁栄できる環境条件が整備された。この頃の光合成バクテリアであるシアノバクテリアの繁栄の痕跡は、ストロマトライト化石として堆積岩に残されている。
シアノバクテリアは現在も世界中の様々な環境で生息している。ストロマトライトを作るシアノバクテリアはべとべとしたグリコカリックスを排出して海中の砂粒などをくっつける。シアノバクテリアは積もった砂粒の表面で細胞分裂をし、数を増やす。そしてまた砂粒を上にくっつけていく。こうして長い時間をかけて積もった砂粒はしま模様になり、年輪を持つストロマトライトができる。ストロマトライトの一番外側にはシアノバクテリアの膜があり、その内側に別の種類のバクテリアが定住している。共利共生関係にあると思われる。27億年間、基本的な関係は変化していないだろう。ストロマトライトは他の細菌を呼び寄せて生態系を作り出し、真核生物の進化の土台を提供した。ストロマトライトは20億年前に最盛期を向かえた。
シアノバクテリアを中心とした光合成生物の繁栄により、生物量が今までより遥かに増えた。さらに、有機物の供給、生態系における物質循環の経路も変化した。それまでの海洋底では熱水循環系の周辺にしか生物圏がなかった。生物生産の中心地は浅海や海洋表層に移動し、生産物が海底へと沈降する物質移送の経路が開かれた。このために、独自の進化を遂げていた多くの深海の熱水循環生態系が影響を受けて、現代化したであろう。すなわち、シアノバクテリアという限られた生物種が繁栄したために生物の基本物質が大幅に整理され、現代の生物はその分子基盤の上に繁栄しているのではないか。そして、この辺から遺伝子を解析した進化時計が利用できるのではないか。
遺伝子を複製する装置は完璧ではなく、低い頻度で間違いを起こす。そのために遺伝子の塩基配列はゆっくりと変化する。同じ機能の遺伝子の違いは種が別れてからの時間にしたがって大きくなる。遺伝子レベルでの進化を分子進化という。分子進化のスピードは特定の遺伝子の変化の程度で表現される。利用する遺伝子を進化時計と呼ぶ。進化時計は、解析の対象である生物が共通に持つ遺伝子が選ばれる。
炭酸固定のためのエネルギー獲得方法をタンパク合成系のrRNA遺伝子の進化系統の序列に重ねると、最初に現れてくるのは化学合成である。その後に高分子有機物分解、光合成の系統が続く。おそらく最初の光合成細菌はシアノバクテリア、グラム陰性の真正細菌である。シアノバクテリアのグラム陰性菌からの分岐点はかなり古い。シアノバクテリアは酸素を発生する光合成を行った最初の生物であるため、初期の生物としては圧倒的な増殖力を誇ったと推測される。自由自在に光エネルギーや化学エネルギーを利用できたシアノバクテリアが多くの遺伝システムを高度化させたであろう。
シアノバクテリアは光合成により水中の二酸化炭素から、酸素を作り出した。酸素は海水中の鉄イオンと結合し、酸化鉄になって沈殿した。現在、人類が主要な鉄鉱石として利用している縞状鉄鉱層は26〜18億年前に堆積した。空気中の酸素濃度は25億年前から5億年前まで大気中に1%程度存在するようになった。
一方で空気中の二酸化炭素は減少し、気圧も低下した。また、二酸化炭素による温室効果もなくなった。地球はこれ以降、4回の全球凍結を経験した。
酸素は強い酸化作用があるため、生物にとっては毒である。生物は活性酸素を処理するためにスーパー・オキサイド・ディスムターゼ(SOD)、カタラーゼ、ペルオキシターゼなどの酵素を進化させ、体内に装備することで酸素に対する耐性を獲得した。耐性ができると、逆に、酸素を利用することができる。酸素呼吸によりATPすなわち、化学エネルギーを合成するシステムをつくり上げた。酸素を用いると、無酸素呼吸(醗酵)の約19倍の効率でエネルギーが獲得できるので好気条件では酸素呼吸をする生物が主流となった。
光合成によって有機物と酸素が安定供給されると、生物界は大きな構造変化を起こしたようである。その一つが共生による多様化である。
古細菌が好気性細菌やシアノバクテリアを飲み込んで、二重の膜に包まれた細胞内小器官、ミトコンドリアや葉緑体と共生を始めたと考えられる(マーギュリウスの細胞内共生説)。現在の真核細胞は単純な共生ではなく、ゲノム全体が古細菌由来の遺伝子と真正細菌由来の遺伝子のハイブリットになっている。大雑把に分けると、遺伝子をDNAの情報をたんぱく質へ翻訳する情報遺伝子群と、そのほかの機能性遺伝子群とに分けたとき、情報遺伝子群は古細菌由来であり、機能性遺伝子群は真正細菌由来であった。一方、リボゾームRNAの配列を比較すると、真核生物、真正細菌、古細菌に分かれる。リボゾーム遺伝子を解析した進化時計による推定では約15億年前に真核細胞生物が誕生した。
真核細胞は体積を増しただけでなく、細胞分裂装置などの重要な細胞運動性の器官と膜器官を進化させた。好気性細菌、光合成細菌、さらに真核細胞の二重の共生によって、真核生物界は、それらの様々な組み合わせからなる多様な生物群を産み出した。原始の真核生物を作りしたメカニズムはさらに複雑な細胞内共生生物を生み出し、その組合せの可能性を試し、巨大細胞が多数出現したことであろう。その原動力は細胞内分業による効率的なエネルギー生産、物質生産であったと思われる。また、酸素呼吸の高いエネルギー効率は高度な生物の誕生と進化を支えたであろう。
すべての生物が持つ遺伝子に注目し、その分子進化速度を測定すれば、生物の誕生した時期を推定できる。作られた系統樹は生物の多様性を示す。系統樹の根本には好熱菌がいるが、それは真正細菌とされているが、遺伝子の取り方によっては古細菌になる。現在進行中のゲノム全体の解析の結果により、明らかにされるであろう。いずれにしろ、細菌は分子系統樹の大部分を構成する生物であり、他の動物や植物を含む真核生物は小さな枝の一つでしかない。生化学的な多様性は原核細胞でもっとも著しい。真核生物の枝の大部分は原生動物が占め、多細胞生物の枝の枝でしかない。生物はたくさん出現した多くの生物種から特殊な生物がさらに多様性を獲得し、大きく繁栄して、次の世代の生物種を生み出すと言う営みを繰り返してきた。
ウイルスは単なる逃げ出した細胞の遺伝子の断片であると考えられてきた。しかし、核酸(DNA、RNA)複製酵素を比較して系統樹を作成すると、ウイルスの酵素は、真核細胞、古細菌、真正細菌の3つのドメイン以外に位置する。したがって、細胞が3種類に整理される前はウイルスに代表されるような多くの種類の核酸複製酵素が存在したのではないか。正確な進化時計が作れないために年代は不明であるが作れないことがその起源の古さを物語る。ウイルスが進化させた重要な酵素がRNA依存性DNA合成酵素(逆転写酵素)であり、当時、RNAを遺伝子としていた細胞の複製機構を乗っ取ったのではないか(細胞の立場から記述すると、細胞がウイルスを利用して自分の遺伝子をDNA化したのではないか)。
単細胞真核生物に感染するウイルスのゲノムが調査されると、小さなバクテリアサイズのゲノムを持つウイルスが発見された。哺乳類や植物のウイルスは自分自身のカプセルと、遺伝子の複製に必要な遺伝子、細胞に寄生するために必要な遺伝子などしか含まれていないが、これらの巨大ウイルスには代謝系酵素(ウイルスは代謝しない)や生合成などの遺伝子が含まれていた。これらの共通遺伝子を真核細胞やバクテリアと比較すると、分岐点は少なくとも27億年前までさかのぼると推測された。もっとも、巨大ウイルスは宿主細胞の遺伝子を取り込んだと推測されるので、この年代推定はさらに検討する必要がある。真核細胞と原核細胞とでは複製システムや遺伝子構造が異なるので、ゲノムがDNAになる前にすでに分化していた。そこにDNA変換ウイルスが感染、DNA化がいっせいに起こったであろう。
真核生物が誕生して、有性生殖の仕組みが整えられた。
遺伝子の複製装置は100%完璧ではない。現在の生物の複製装置でも約1000万分の1の確率で間違いを起こす。単純な2分裂ではだんだんと突然変異がたまってくる。やがて、致命的な突然変異が発生するとその生物は死んでしまう。ましてや、オゾン層ができる6億年前以前の地球では大量の紫外線が地上に降り注いでいて、現在のような核酸を遺伝子とする生物にとっては遺伝子がずたずたにされる死の世界であった。
細菌では遺伝子を大規模に交換する現象が知られている。古代の細菌は核酸を遺伝子として採用したころから遺伝子を交換する仕組みも発達させた。紫外線などで切れた遺伝子を修復するために利用した。食べた獲物の遺伝子をそのまま取り込み、自分のために利用したかもしれない。細菌は誕生以来、多くの半端物が集合体を作って共同生活をしていたこともあり、遺伝子の交換システムを持つことは自己の安定化、永続化に欠くことのできない能力として威力を発達したであろう。
環境が悪化したときは遺伝子の交換能力は最大限に発揮された。細菌は寄り集まり、死んだ仲間を食料にし、時には共食いをして困難な環境を生き延びた。その中には遺伝子だけを仲間に預けることも行われたに違いない。その中で細胞内共生が誕生した。
遺伝子を蓄える細胞内器官である核が誕生すると、その核を単位として全遺伝子交換を定期的に行うようになった。真核生物の誕生である。まず、必要な遺伝子のセット(ゲノム)を2組準備した。真菌類(真核細胞である。真正細菌ではない)では、通常、分裂で増えるときはゲノムが1組である(ハプロイド)。有性生殖を行うときだけ、くっついて(接合)、遺伝子セットを交換する。接合の仕組みは細菌の時代に構築された。ゲノムの片方を交換する。2組のゲノムは遺伝情報が相同な部分が並んで、ランダムに交換される。それぞれのゲノムは分かれて胞子を作り、それが次の世代となる。ゲノムの交換方法は様々な形が試されたであろう。
真核細胞の増殖法の1つである有性生殖は、接合(受精)と減数分裂という2つの過程からなる。接合では2個のハプロイド細胞が細胞膜や細胞質だけでなく、核までも融合させてディプロイド細胞になること。減数分裂では、ゲノムが複製して4セットになった後、相同染色体の対合と2度の有糸分裂を通じて、1個のディプロイド細胞から4個のハプロイド細胞が生じる。有性生殖の仕組みは約10億年前に成立したと見積もられる。
一番単純な真菌の有性生殖でもその仕組みは複雑である。多くのタンパク質が共同作業をする。遺伝子の複製は既存の仕組みを使うが、遺伝子は複製されても娘細胞に分かれないでいるなど、新しい制御機能が必要である。また、新しい制御機能は有性生殖のときだけ発動するようにプログラムされなければならない。有性生殖の仕組みが完成するまで、進化上、多くの新しい遺伝子が誕生し、その発動プログラムが書き直されたであろう。現代の生物が持っている装置は仕組みを改良し続けた結果である。高等生物の体はディプロイド細胞が基本で、有性生殖するときだけハプロイド細胞(精子と卵子)を作り出す。
有性生殖は同時に遺伝子の交換を定期的に行うことで進化を加速した。特にゲノムサイズが大きくなると有性生殖による遺伝子の交換は有効である。
原生代は超大陸の形成と大気中の酸素の誕生で特徴付けられる。19億年前に初めてローレンシア(ヌーナ)大陸ができた後、10億年前、5.5億年前そして3億年前にそれぞれロディニア、ゴンドワナ、パンゲア超大陸ができた。この周期をウィルソンサイクルといい、その間に、大陸の数の変化、海水準変動、氷河の発達、および生物の大量絶滅がおきた。これらのすべてが生物を進化させる原因となった。
カンブリア紀以前に安定化した大陸断片をとよぶ。クラトンの中でも古いものは18億年前から存在している。ちょうど最初の超大陸のできた年代である。マントル対流が一層化し、プルームテクトニクスがスタートした25億年前から、それ以前に形成されていたプレート沈込地帯の火山に由来するものであろうか。すなわち、クラトンはプレートテクトニクスが発生した40億年前から約20億年かけて寄せ集められ積み上げられたのだろうか。すると、クラトン内部の構造には40-20億年前の歴史が刻まれていることになる。
一方で、20億年程前には地球の地殻とマントル上層の温度が下がって、水が海洋地殻と一緒に沈み込み、沈み込み帯での花崗岩質の岩石が大量に作られるようになったためであろうか。均一で硬い花崗岩質の巨大な大陸地塊の形成が一気に進んだことになる。
マントル対流は、地球表面を覆うプレートの動きを誘起する。プレート運動は、GPS等の技術を用いて、1年で数ミリメートルから十数センチメートルの速度であると直接観測されている。ざっと1年に3cmの速度として、コア表面から地表までの3000kmはおよそ1億年をかけて湧き上がってくる。逆に、コールドプルームが発生すると、その先端がコアまで届くのにおよそ 1億年、その間に3000km四方のプレートが引き込まれる計算になる。地球の周囲は4万キロメートルであるから、コールドプルームが発生してからざっと6億年ですべてのプレートがコールドプルームの場所に集まる=超大陸が形成されることになる。ウイルソンサイクルはこの計算より速い。
全地球凍結は過去4回、29、24、8,6億年前に起こったと推定される。最後のスノーボール・アースは8億年前から6億年前とされる。地球表面が完全に氷で覆われたら生物は大絶滅したと考えられる。しかし、氷河の表面でもシアノバクテリアが生存し、ストロマトライト様の構造物を作ることが知られている。氷の上でも生活する昆虫やバクテリアが知られている。また、火山活動の活発な所では完全凍結せず、生き延びることができたであろう。2億年の間ずっと凍結したのではなく、赤道まで凍結するような時期が何回かあったのかもしれない。
地球の温度が冷めるにしたがって、プルームが上がる位置が、だんだん地球深部に移動していったと考えられる。現在では、670kmより深いところでだけで働く。メガリスができる深さもこの深度である。深さは、過去ほど浅かったはずである。地球が熱い間はプレートに含水鉱物として入り込んだ海水は熱で分離され、地上へ戻っていた。しかし、地球が冷えてくると、水が分離されなくなり、含水鉱物としてマントルに残るようになった。これを海水のマントルへの注入という。スタートしたのは10〜6億年前で、現在までに海水が3分の 2に減少した。陸地が5%から30%に増えた。ゴンドワナ超大陸の出現とともに地球に初めて巨大大陸が出現することになった。
10〜6億年前から、徐々に海洋プレートに含まれる海水が岩石と分離せず、マントルまで達するようになった。地球表面の海水が減少し、陸地の面積が増大した。陸地を流れる河川が発達し、大きな河川によって大量の土砂が海へ運ばれた。浅い海が発達し、光合成をする生物は生活範囲を拡大し、多様化した。 藻類は化石として残りにくいので証拠はないが、この頃は藻類が大繁殖し、体細胞生物として進化していただろう。藻類の死骸は堆積した土砂に埋まり、酸化されずにそのまま堆積岩の中に閉じ込められた。そのため、6〜5億年前には大気中の酸素濃度が上昇した。藻類などの生物体総重量が増えたことも一因ではないか。それまで地球上のいたるところで見られた嫌気性の生物は酸素のあまり存在しない環境、たとえば土壌中などに追いやられてしまった。
藻類は原始的な植物とみなされている。原核藻類であるシアノバクテリアと、細胞構造や機能面で大きく異なる10の真核植物門に分類される。藻類は、起源の異なる生物群から、細胞内共生が複数回起こったと考えられる。葉緑体はシアノバクテリアが細胞内共生した結果と考えられている。母体となる細胞の膜にシアノバクテリアが膜ごと包まれた形態をしている。すなわち、葉緑体は2枚の膜を持つ。これが一次細胞内共生である。普通に見られる緑色植物と紅藻植物、灰色植物の3植物門が一次細胞内共生で、植物界の中心である。
葉緑体包膜が3枚以上ある藻類も存在する。すなわち、一次細胞内共生植物が、さらに他の細胞に入り込んで共生したと考えられる。二次細胞内共生により葉緑体を獲得した藻類は、植物界からは独立した6番目の界、クロミスタ界とされる。ちなみに、残り5つはモネラ界(原核生物)、原生生物界、植物界、菌界、動物界である。
寄生性の微生物の中には細胞の中に潜り込んで生活する生物がいる。赤痢菌などは腸の細胞に取り付き、細胞内にタンパク質を注入し、自分を取り込ませる。細胞内では消化システムから身を隠して増殖する。
マラリア原虫は単細胞の真核細胞生物である。生体に感染すると赤血球内に潜むが、寄生胞膜を作り出し、その膜に包まれている。マラリア原虫は様々なタンパク質を分泌し、寄生胞膜を解して赤血球全体にタンパク質を送り込む。加工された赤血球は宿主の免疫機能をたくみに逃れる。細胞内に入り込んでその細胞をコントロールする分子的な仕組みは現在大きな研究分野となっているが、その基礎は多細胞生物ができる前に数億年かけて作られたのであろう。
海藻や真菌類は細胞が寄り集まった多細胞生物である。ときどき生殖細胞ができる程度である。細胞の独立性が高く、体のあらゆる部分が全体を再生する能力がある。植物も同じような能力を持つ。機能が分化した多細胞生物が発達する前に、細胞同士が寄り集まる土台として、細胞を集団で包む物質の進化が起こったに違いない。それが現代のタンパク質と多糖で構成される複雑な分子、細胞間マトリックスとなっている。
現在の多様な細胞形態は多くは単細胞の真核細胞生物が保存している。これらの祖先は先カンブリア紀、特に原生代後期に誕生したと考えれるが、化石は残されていない。唯一の鍵はゲノム全体の比較による遺伝子時計であろう。現在、単細胞製の真核細胞生物のゲノムが徐々にではあるが解明されつつある。
遺伝子の進化時計から推定すると、多細胞化は9億年前に始まった。最初にカイメン類とそれ以外の動物が分岐した。そのあと、クラゲ、イソギンチャク、ヒドラなどの二胚葉動物と主要な動物のグループである三胚葉動物とが分岐した。
これらの生物は単なる細胞の集合体でなく、分化した(役割分担した)細胞から形成される。クラゲやイソギンチャクの体は、大雑把に言うとボールがへこんだ形になっている。外側の細胞(外胚葉) と、消化器を形成する内側の細胞(内胚葉)とに別れる(二胚葉動物)。他の生物では内と外の間に細胞があり、中胚葉と呼ばれる。人間の体を筒と見立てると、外側:皮膚が外胚葉、筒の内側:消化器が内胚葉、その間:筋肉や骨が中胚葉である(三胚葉動物)。
生物の体はいたるところ、上皮と呼ばれる細胞のシートで包まれている。特に上皮は外界との境界で発達する。上皮ができるには細胞が互いに強く接着する能力を持つ必要がある。上皮で包むことで、生物独自の空間を作り出した。上皮の袋の中に細胞を入れ、生殖器官や神経の束など、いろいろな機能を独立した器官として形成できる。袋の内側を一定の環境に保ち、栄養分を蓄え、内臓器官には専門の機能を持たせ、独自の運動をさせることもできるようになった。
単細胞の原生動物である立襟鞭毛虫には神経や細胞接着に関係する遺伝子など、多細胞特有の遺伝子が見つかる。多細胞生物になるための準備は単細胞生物時代に準備されていた。
三胚葉動物はおよそ6億8千年前に、まず新口動物(後口動物)と旧口動物(前口動物)のグループに分かれた。旧口動物のグループは、節足動物や線形動物を含む脱皮動物のグループと軟体動物や扁形動物を含む冠輪動物のグループに大きく分かれた。新口動物の方は、ウニ、ホヤが出現した。これらの多細胞生物は化石になりにくいために、地質学的な証拠が残っていない。
これらの生物は幼生時代は小さなプランクトンとして成長する。プランクトンとはいえ、多細胞生物であり、単純ではあるがボディプランは大型の成体の構造を反映する。8〜6億年前にはホメオボックス遺伝子群などの細胞の分化に関わる遺伝子群が複雑化した。ホメオボックス遺伝子は多細胞動物の発生の過程で形態形成をコントロールする調節遺伝子である。ボディプランを司るホメオボックス遺伝子群と、細胞の接着、細胞間の情報を担う遺伝子が多様化し(遺伝子重複)、生物の機能を高めるような相互作用が成立したと考えられる。
8〜6億年前は全地球凍結が起こった時期である。同時期に、南太平洋スーパープルームが上昇を開始し、超大陸ロディニアが分裂を始めた。6億年前、全地球を覆った厚い氷河が溶けると、酸素濃度の急激な増加が始まった。分裂した大陸の間に暖かい海が生まれ、酸素を使った本格的な生物の進化、すなわち、大型化が始まったと考えられる。5.5億年前頃までにつぎの超大陸ゴンドワナができあがり、すぐに分裂を始めた。このころの多細胞生物としてエディアカラ動物群が化石として残されている。
エディアカラ生物群では大きなものは直径1メートルにも達するが、薄い平板状で、活発に動き回って生活していたようには見えない。左右対称のものや回転対称のものがある。共生光合成細菌を乗せてゆっくりと移動したのであろうか。当時は浅い海にはストロマトライトが、海の底には藍藻マット(バイオマット:岩石や地面を覆う微生物の膜でぬるぬるした肌ざわりがある)が張り付いていた。エディアカラ生物群は、5億4300万年前のカンブリア紀の始まりには衰退した。衰退の原因は、大陸分裂初期の爆発的な火山活動が関係した、また、カンブリア紀初期に出現するバージェス動物群に食い尽くされたという説がある。
カンブリア紀(5億4300万〜4億9000万年前)初期から大量の化石が発見される。急激に生物が進化したように見えるのでカンブリア大爆発と呼ぶ。この頃の化石にアノマロカリスやオパビニアなどの不思議な大型生物で有名なバージェス動物群がある。バージェス頁岩に保存された化石では体の軟らかい部分がきれいに残っているため、動物の体の構造や機能をくわしく調べることができた。また、三葉虫など化石としてよく知られた動物が繁栄した。現在の生物の祖先も多く出現した。節足動物(クモ、サソリ、カブトガニや三葉虫)、脊索動物(背骨の原型である脊索を持つ)や脊椎動物である。我々の祖先となった背骨を持つ生物の原型、脊椎動物は全長はわずか数cmで、原始的な魚類・無顎類に属する。
カンブリア紀の特徴は捕食者が明快な形で出現したこと。捕食に必要な器官があり、運動性能が備わっていたと予測できる。運動のためには酸素呼吸が利用されたであろう。また、大型捕食動物の出現に合わせるように、多くの動物が鉱物質の外骨格をまとうようになった。ほぼ同時に敵を察知するセンサー群も進化したであろう。また、センサーの情報に基づいて、筋肉の運動へ統合する神経組織も誕生したに違いない。
バージェス動物群の出現は化石のデータからみると、突然である。甲殻動物や節足動物は幼生期は小さなプランクトンとして成長することが知られている。化石として残る以前は小さなプランクトンとして、寒冷な時期を乗り越え、進化した、すなわち、遺伝子を改良し、多様化させたのではないか。その中で効率的に酸素呼吸ができるような仕組みを備えたことが大きな要素であろう。大型化はすなわち、体の中心部に酸素を運搬する仕組みがないとできない。
急激に見える進化はそれ以前の遺伝子変異の蓄積の賜物である。大型化を成し遂げ、装甲を作り上げた契機については諸説あるが、海水中の酸素濃度がある一定量まで増加したことと、温暖化を挙げておきたい。
三葉虫は、たくさんの肢を使って泥を巻き上げ、栄養分を泥といっしょに摂食していたと考えられる。特徴的な掘削跡(生痕)がたくさん残されている。海底表面をおおうバイオマットの下を掘り進みながら、そこにある腐食した古いバイオマットを食べていた動物もいて、トンネルも生痕化石として残されている。原生代に繁栄したストロマトライトは10億年前がピークで、カンブリア紀には最盛期の5分の1にまで減ってしまった。
バイオマットは生痕のキャンバスの役割をした。カンブリア紀後期またはオルドビス紀初期(約5億年前)の標本には、海に近い砂丘の堆積物の上に残された動物の歩行跡がある。少なくとも4対の歩行肢をもつ大型の節足動物、おそらく、ウミサソリによるもので、尾の跡も判別できた。
リン酸塩が大量にカンブリア期に堆積し、リン鉱石となった。これ以後、リン鉱石といえば生物由来となった。鳥の糞であるグアノが代表例である。
ゴンドワナ大陸はオルドビス紀からデボン紀にかけて南極を通過した。この頃の陸地はほとんどが南半球にあった。 カンブリア紀の生物は5億年前に大部分が絶滅し、オルドビス紀の生物が出現した。一言でいうと豊饒の海の出現。生物の関係が複雑化して、現在のさんご礁のような風景を作り出した。蛸、イカ、貝など、日本人の好きな海産物が誕生した。カンブリア紀は突然生物が出現したので、驚きの意味も込めて進化の大爆発であったが、実際にはオルドビス紀はカンブリア紀を上回る生物の多様化をもたらした。
オルドビス紀で誕生した生物の器官として代表的なものは、石灰質の殻(層孔虫、サンゴ、腕足類(二枚貝)や巻貝、ウミユリ、オウムガイ(殻のついたタコやイカの祖先))である。いずれも身を守るための装備と考えられ、海の中の生物は肉食動物から身を守ることができたものが繁栄した。
脊椎動物の系統では、オルドビス紀の5億年ほど前に、メクラウナギやヤツメウナギの無顎類と顎のある有顎類に分かれ、後者の系統では、デボン紀の4億年ほど前に魚から四足動物が進化する
オルドビス紀に作り出された海の中の多種多様な生き物の世界は、何度かの部分的な絶滅はあったが、ペルム紀まで2.5億年ほど続いた。なお、比較的大規模な絶滅が発生するたびに「紀」が変わる。 ゴンドワナ超大陸が南極に達し、寒冷化したため、生物の絶滅があり、シルル紀となった。シルル紀では植物の陸上への進出が始まった。
地球上に酸素がじゅうぶん蓄積されると、オゾン層のバリアーができ、有害な紫外線が地表に届かなくなって、さまざまな生物が陸に上がることができるようになった。約4億2000万年前である。陸上は、海中に比べるとまだ生命に致死的な紫外線量が多く、さらに、乾燥を防止するための仕組みや浮力が無いため体を支える構造が必要になる。一方、酸素濃度が海中より遙かに高く、競合生物が皆無であるという好条件もあった。植物にとっては光量も二酸化炭素量も海中より遙かに多いという意味で魅力的な環境であった。
まず地衣類(コケ)が現れ、ついでシダ類が繁茂した。しかしシダといってもまだ葉が分化しておらず茎だけの形だった。乾燥に耐えるために水分調節のための気孔を持たなくてはならない。重力に逆らって水や栄養分を運搬するために細い管を束ねた維管束が発達し、同時に、茎も強固になった。
植物が陸上で成功すると、腐った植物を食べるダニのような動物が上陸し、ついで昆虫類が繁殖した。最古の昆虫の化石はスコットランドで発見されたシルル紀のものである。陸の上では浮力無しで体を支え、また、乾燥に耐える必要があったので、体が殻で覆われた節足動物が陸上に進出したのであろう。陸上で運動するためには殻が分断され、運動器官が形成されている必要があった。
羽を持ち、空を飛ぶ昆虫は3億年前(石炭紀)に出現した。約2億5千年前(ペルム紀)には現在の昆虫がほぼ出揃った。
脊索動物から脊椎動物への進化、すなわち、魚類の誕生は、カンブリア紀後期に、浅い海で起こった。最初に出現した脊椎動物は顎(あご)を持たない無顎(むがく)魚類である。無顎魚類の中から体表にリン酸カルシウムの結晶をくっつけて体を守るものが出現して、生存に有利になった。
コラーゲン繊維は生物の多細胞化のときに誕生した外皮のタンパク質である。原始の脊椎動物の体表は厚いコラーゲン繊維で覆われていた。骨は骨細胞がコラーゲン繊維の束の中に分泌するリン酸カルシウムの結晶である。最初の骨は皮膚に作られた。
リン酸カルシウムの鎧(よろい)を完成させたのがオルドビス紀に棲息していた甲皮類である。この種の脊椎動物は現代に生息していない。この甲羅を失って裸となったのが現存の円口類である。進化の過程で、外骨格から内骨格へ移行した。背骨のように神経組織を守る骨。肋骨のように内臓組織を守る骨。ついで、運動のための四肢の骨が発達した。脊椎動物の体も昆虫のように体節に分かれていて、椎骨が基本単位となっている。シルル紀を経てデボン紀までに、顎を持つタイプの魚類が相次いで海に出現した。
骨はリン酸を蓄積する倉庫としても機能する。リン酸は、あらゆる生命現象に分子レベルで重要な役割を果たしている。リン酸を自由に使えるように蓄える仕組みを持つことで、より高度な生物活動ができるようになった。
デボン紀は「魚の時代」と呼ばれ、脊椎動物の原形がつくられた。シルル紀に出現した初期の硬骨魚類は、リン酸カルシウムの内骨格、すなわち、ミネラルの貯蔵庫を持っていたため、汽水や淡水域に進出することができた。硬骨魚類はデボン紀の淡水域で繁栄し、現在のほとんどの魚類の祖先である。多様な気候風土、生態的に隔離された環境である河川・湖水で様々に進化した魚類はデボン紀の後期には徐々に海へと回帰した。
陸の気候は変動が激しく、乾燥期が始まると川や池の水が減少して停滞し、鰓(えら)呼吸では酸素が不足する。大気中の酸素を直接利用できる器官があると生存に有利である。食道から枝分かれした、毛細血管が密に分布した組織、肺を持つ硬骨魚類が誕生し、繁栄した。肺魚は当時の乾燥期を生き抜くことができた。肺魚は4本の足をもつ動物と魚類の間に位置する肉鰭(にくき)類と呼ばれる魚類である。鰭(ひれ)が肉質で、腕が肩(?)について、その先に鰭がある。魚類のほとんどは条鰭(じょうき)類である。放射骨が直接、肩(?)にくっついている。
肉鰭類から両生類が進化した。最も原始的な四足動物とされるのはデボン紀後期のアカントステガとイクチオステガであり、これらは足にそれぞれ8本と7本の指を持っていた。
体の構造を支配する遺伝子はHox遺伝子である。魚のひれの発生と四肢動物の外肢の発生におけるHox 遺伝子の発現は生きた化石(2 億5000万年以上前)であるヘラチョウザメでよく似ていた。したがって、四肢発生(の一部)がすべての硬骨魚に共通した原始的なものであり、高等魚類では進化の過程で失われてしまったと考えられる。
現在の北米からヨーロッパにかけて存在する巨大な炭田は石炭紀に繁茂した植物に由来する。米国のウェストバージニア州では、35万年かかって形成された17メートルの厚さの石炭層が117も重なっている。
シルル紀(約4.5億年前)にオゾン層が完成し、植物が上陸した。デボン紀に長い時間をかけ、水分の蒸発を調節する気孔、水を運ぶ維管束、乾燥に強い胞子を装備したシダ植物は石炭紀に大森林を形成した。シダ植物は生活環の一部に液体の水を必要とする受精期があるため、水辺から離れることができなかった。大森林は食べる動物もなく、丸のままたおれて積み重なり、炭化した。すなわち、炭素を大地に埋めていった。 光合成で作られた酸素が呼吸で消費される相手方の炭素が地中に埋められたため、大気中の酸素濃度が上昇した。植物の上陸当時は大気中の酸素が1%程度であったが、石炭紀からペルム紀(3.5-2.5億年前)にかけて30%あるいはそれ以上に達した(現在は21%)。
植物の後に節足動物が上陸した。節足動物は殻に覆われていたため、比較的乾燥に強い。空気から直接、酸素を取り込む仕組み(気管。気管の体表にある開口部を気門という)を装備すれば陸上に上がることができた。 節足動物は陸上では巨大化できない。体を支える外骨格の重量が大きいため、外骨格が大きくなるには大きな筋肉が必要になるが、容積の制限がある。筋肉の性能により、大きさの上限が決まる。また、気管は酸素を受動的に取り込む装置であるため、酸素呼吸が十分にできない。
しかし、石炭紀からペルム紀にかけては酸素濃度が上昇したことにより、呼吸の問題は解決した。昆虫類の進化が進み、巨大化した。ペルム紀以降、巨大な炭田ができなくなったのは大繁栄した昆虫類が植物を食べ始めたためではないか。以後、昆虫は植物の天敵となり、3億年の間、両者の間で濃密な共生関係、食べるものと食べられるものの攻防が進化・発展した。
シダ植物群と節足動物群がそれまで砂漠であった陸地を次々に土壌化していった。土壌とは、地表を覆う岩石の風化生成物と植物の分解残留物の混合物である。粗粒の無機物、コロイド状の無機物、有機物、微生物、土壌溶液、土壌空気からなる。陸上の安定な生態系に必須のものである。
両生類の出現はデボン紀後期である。内陸部が乾燥したが、大森林が適度な湿気を保つゆりかごの環境を作り出した。ペルム紀には両生類は繁栄を続け、その大きさは1.5メートルほどにもなった。両生類の中から殻のある卵を産む有羊膜類が分岐し、より乾燥した土地へと棲息範囲を広げた。この頃の陸上に進出したばかりの生物の分類は整理されていないようだ。絶滅種も多い。ペルム紀には有羊膜類から進化した哺乳類型爬虫類であるディメトロドンなどが覇権を握り、その大きさは3.5メートルほどにもなった。また、哺乳類型爬虫類は哺乳類の祖先である。
ペルム紀末(2.5億年前)には地球史上最大の大絶滅が起こった。海棲の無脊椎動物の96%の種が消えた絶滅事変は数百万年の間に進行した。パンゲア超大陸の周囲へ沈み込んだ海洋プレートが一斉に地球の核へ向かって落ち込みはじめ、その反動として地表に向かう巨大スーパーホットプルームが発生した。旧中国大陸を中心に巨大な火山活動があり、大噴火の跡がシベリア洪水玄武岩とされている。大量の火山灰で地球が覆われ、寒冷化したという説があるが、これでは海の生物の絶滅が説明できない。代わって、大気中のメタンや二酸化炭素が増え、温室効果で気温が上昇するとともに、酸素欠乏が長期に渡ったという説が検討中である。呼吸器系のより進化した二枚貝などはこの変化にたえることができたようだ。単細胞のフズリナ類や長い間繁栄してきた三葉虫は絶滅した。サンゴ類、ウミユリ類、腕足類、コケムシ類、アンモナイトが次の三畳紀にわずかに残された。
海洋だけではなく、陸上においても生物は大量に絶滅した。哺乳類型爬虫類もペルム紀後期には長期に渡って数度の絶滅現象を経験した。陸上の生物の中で生き残ったのは効率的な呼吸装置を持つ生物である。鼻と口を分離して、横隔膜を使って呼吸する生物や、特に鳥類(恐竜も)のように、肺のほかに気嚢を持って、出入り方だけでなく、循環型の呼吸が呼吸器を発達させた動物が生き残った。植物は乾燥に強い種子により子孫を残せたためにあまり大絶滅しないのだが、ペルム紀末の大量絶滅では植物もかなり絶滅した。
ペルム紀末の大量絶滅を区切りとして古生代から中生代に代替わりした。三畳紀はじめは地球上の生態空間は空っぽで生物があまりいない状態ではなかったか。三畳紀に超大陸パンゲアは北上し赤道をまたぐようになった。三畳紀に入ると爬虫類が大きく進化し、ついには恐竜が地上に大繁栄した。
6億年前の超大陸はゴンドワナ大陸であるが、成長前のローラシア大陸が独立して存在していた。2つの大陸は一度割れた後、徐々に近づき、衝突面は2つの大きな造山運動となった。その結果、ペルム紀末にはローラシア大陸とゴンドワナ大陸とが合体し、超大陸パンゲアができた。
カレドニア造山運動は4.2-3.9億年前に起きた。カンブリア紀からオルドビス紀にはローラシア大陸(北アメリカとグリーンランド)の東側にイアペタス海が広がっていた。イアペタス海の東にはバルト楯状地を含む北西ヨーロッパの陸塊(バルチカ大陸)とモロッコあたりの地塊を含む西アフリカの陸塊があった。ゴンドワナ大陸は南極側にあった。
ゴンドワナ大陸とバルチカ大陸の間のリーク海が拡大し、バルチカ大陸がローラシア大陸に接近し、シルル紀末にイアペタス海が消滅した。ノルウェーやスウェーデンのあるスカンジナビア山脈、イギリス、アイルランドや北アメリカ東岸のアパラチア山脈などと共に形成された。偶然か、この部分はジュラ紀に裂け始め、北大西洋ができた。
バリスガン造山運動は石炭紀(3.5-2.9億年前)に起こった。この造山運動はローラシア大陸とゴンドワナ大陸の衝突であり、ローラシア大陸の南側(ゴンドワナ大陸の北側)に広がっていたリーク海のうち、西側が石炭紀後期に消滅した。東側は古テチス海と改名。さらに、それまで北半球にあったシベリア大陸がローラシア大陸に衝突し、ウラル山脈が形成された。
当時の2大大陸が衝突したのであるから、その規模は史上最大であった。西の果ては北アメリカのアパラチア山脈、ヨーロッパに渡って、イベリア半島、イギリス南端部、ベルギー、フランス北部、ドイツ中央部、チェコ西部に広がる。さらに、その東の延長には古テチス海がローラシア大陸に沈み込み、沈み込み帯に、中央アジアの天山、アルタイ、大興安嶺、そして南下して、インドシナ半島の東部の山脈が連なり、パンサラッサ海の沈み込み帯にできたオーストラリア東部から南極に達した山脈まで続いている。この頃にシベリア大陸に付随した2つの陸塊、揚子地塊と北中国の中朝地塊が衝突した。
カレドニアン造山運動期に伴い、シルル紀にイアペタス海が陸地になった。シルル紀は植物が陸地に進出し、節足動物がその後を追った。さらに、シルル紀末には維管束を持つ植物の化石が見つかっている。デボン紀には、森林が形成され、淡水魚、昆虫、最初の両生類(イクチステガ)など陸上生活に適応した生物が進化した。 バリスカン造山運動期には石炭紀後期にリーク海がとじた。石炭紀には低湿地帯では巨大樹木の森林(鱗木)や裸子植物である針葉樹が出現した。ペルム紀には完全な陸上生活ができる哺乳類の祖先や原始的ハチュウ類をはじめ、多様な昆虫類、そのほかの節足動物が出現した。
2つの造山運動に押されて、生物は陸上生活への適応・進化を加速した。
生物のゲノムを調べると、ゲノムを構成する1セットの遺伝子数(ゲノムサイズ)が倍になった時期がある。一つは真核生物が誕生したときであり、約15億年前である。原核生物の大腸菌ではゲノムサイズは約4377遺伝子であり、細菌は遺伝子数は1000-7000個(平均値は大腸菌の遺伝子数くらい)である。一方、真核生物である酵母のゲノムサイズは5538遺伝子、病原菌であるマラリア原虫(Apicomplex類)が約5300である。
単細胞の真核生物のゲノムはかなり複雑で、ゲノム解析が遅れていた。糸状菌類(麹菌など)は9000-12000ほどの遺伝子を持つ。繊毛虫類(ゾウリムシなど)は小核と大核の2つの核を持つ。2つの繊毛虫類で大核のゲノム配列が決められた。大核の遺伝子は小核に比べてコンパクトであり、遺伝子間配列、繰り返し配列、トランスポソンが取り除かれていた。遺伝子は大規模に重複しており、コードされる遺伝子数は真核細胞で最大である。テトラヒメナは225本の染色体を持ち、27000遺伝子をコードする。Paramecium tetraureliaは39462個の遺伝子を持つ。トリコモナスは60000遺伝子をコードする。トリコモナスはミトコンドリアの代わりにhydrogenosomesをもつ。
真核細胞の多様化は数億年かけて行われた結果である。遺伝子の多様化を背景に、6億年前のカンブリア紀の大爆発が起こったのであろう。普段はアメーバのような単細胞生物であるが、生殖時には集合して多細胞生物となる粘菌は12500遺伝子を持つと見積もられた。多細胞生物である線虫(C. elegan)は19893遺伝子、ショウジョウバエは13676遺伝子、ハマダラカのゲノムサイズは14000遺伝子である。イソギンチャクは18000遺伝子、原索動物(脊椎動物の祖先)であるホヤは15852遺伝子である。イソギンチャクのゲノムは、系統発生上、後の時代に出現したショウジョウバエや線虫のゲノムよりもはるかに複雑であり、脊椎動物のゲノムに似ている。ショウジョウバエおよび線虫のゲノムは、おそらくDNAの喪失や再編成を通して単純化していったのであろう。
オルドビス紀、シルル紀と、ゲノムサイズが倍になった生物が出現した。脊椎動物である。とくに、体の構造を指令する遺伝子群の倍化が効果的であったと考えられる。脊椎は、複雑な感覚器(目や鼻)と骨と筋肉で支えられた強力な咽頭を頭部もつ構造である。さらに脊椎を体節として様々な臓器が分化、形成される。脊椎動物は大型化し、現在でも食物連鎖の上位にいる生物である。脊椎動物であるフグは27918遺伝子、人は22287遺伝子である。魚、両生類、爬虫類、鳥、哺乳類はほぼ同じ遺伝子数と考えられている。ちなみに植物であるシロイヌナズナのゲノムは25,498個、ブドウは30434個、稲は37544個、ポプラは45555個である。
多細胞生物から脊椎動物まで、急激に遺伝子数が増えた。単細胞生物から多細胞生物までのように、10億年余りの時間の中でゆっくりと遺伝子のテストと改良を重ね、多様性を獲得してから大発展となればもっと異なった脊椎動物、むしろ、脊椎動物に匹敵する全く別の高度な生物が出現したかもしれない。造山運動で早い進化の圧力を受け、ペルム紀末の大絶滅後、大幅な多様化のチャンスにもカンブリア紀の大発展ほどの多様化は起こらなかった。
2,5億年前のペルム紀末の大量絶滅を経て、中生代(三畳紀、ジュラ紀、白亜紀)になった。 三畳紀にはパンゲア超大陸が存在した。現在のトルコから中央アジア、南中国にかけて古テチス海が沈みこんで消滅しようとしていた。その南からテチス海が拡大した。境界には現在のチベットやトルコ、イラン高原などがあった。
裸子植物のうち、ペルム紀に発生したイチョウ類が次第に勢力を伸ばした。三畳紀にはイチョウ類、松柏類、ソテツ類が主となり、下に真正シダ類が繁茂する森林を構成した。初期の裸子植物、イチョウ類やソテツ類は、胚珠が裸で直接外気に接している。松柏類では、枝や葉が変形してできた鱗片状の器官で胚珠を覆い、球果を形作り、胚珠を保護する。受精も花粉により、花粉管を伸ばして直接卵細胞に精細胞を送り届ける形態になった。地球上のほぼ全域に生息域を拡大できる仕組みとなった。
ペルム紀に栄えた巨大な単弓類は滅亡し、単弓類は他の爬虫類とともに生態系の一員となった。爬虫類はアンモナイトと共に中生代を代表する生物である。三畳紀には爬虫類は陸、海に生育範囲を拡大し、やがて、ジュラ紀には恐竜と呼ばれる一群の爬虫類が生態系のトップにのし上がった。分類学的には竜盤目と鳥盤目の2つを恐竜と呼ぶ。恐竜は、翼竜やワニとともに主竜類とよばれる仲間である。恐竜は脚を体の真下にのばして、前後に動かして歩くことができた。そのため、小さい恐竜は、すばやく動くことができ、高い運動性能をもち、ほかの小型の動物を餌とした。また、真下に伸びる足は巨大な体を支えることができた。乾燥しやすく、また、温度変化が激しい陸上では巨大化は大きな武器であった。恐竜はジュラ紀に巨大化し、白亜紀には特徴的な装備を持つ多数の種が出現した。
ジュラ紀は温暖で、恐竜が大型化し、多様化した。陸上には裸子植物や恐竜、海に魚竜や長くび竜、空に翼竜などの爬虫類が繁栄した。テチス海にはサンゴ礁がひろがっていた。テチス海の北岸は現在の東南アジアから中東(インドはまだはるか南にあった)を通り、ヨーロッパ、北アメリカ大陸にいたる。南はオーストラリア北部からインドの北側を通り、アラビア半島、北アフリカにおよぶ。大西洋が開きつつあり、テチス海の西は南アメリカにおよぶ。テチス海底は現在はヒマラヤ山脈・アルプス山脈となっている。
白亜紀の恐竜は温血動物となり、懐卵するもの、幼生動物を養うものも現れた。そのまま進化したら、自由になった前足を使うものが現れ、人類のような種が出現しただろうか?しかし、恐竜は約1億5000万年の間、地球上に存在したが、ついに文明を持つものは出現しなかった。
恐竜が体表に羽毛を持っていたかは現在の課題である。長年、鳥類化石と認められていた始祖鳥に疑問符がつき、中国で見つかっている羽毛恐竜や原始的な鳥「孔子鳥」が鳥類の起源と考えられている。この場合、鳥類の出現は白亜紀前期(約1億3000万年前)となる。
ジュラ紀の終わりから新生代に連続する新しい地殻の動きがはじまった。一つは大西洋が開いたことであり、ローラシアは再び裂けることとなった。裂け目はゴンドワナに延び、南アメリカとアフリカが分断された。1億4千万年前に始まったゴンドワナ大陸の分裂はそれだけでなく、アフリカからマダガスカル、南極、オーストラリア、インドが切り離され、それぞれが北上した。この動きに伴ってテチス海は、できつつあったユーラシア大陸の下にもぐりこみ始めた。沈み込み帯は後に隆起し、アルプス・ヒマラヤ造山帯と呼ばれる。テチス海の南にはインド洋が出現し、拡大した。
オーストラリア大陸は1.5億年前に南極から切り離されて独立した生態系を持つようになった。特筆すべき動物は有袋類である。とくにカモノハシは哺乳類と爬虫類の両方の性質(遺伝子)を持っている。他の大陸では子宮を持つ哺乳類が出現し、有袋類を駆逐した。
インド大陸の移動速度は突出している。計算では毎年20cm。オーストラリア大陸は毎年数cm、大陸の乗っていない太平洋プレートも毎年5cm程度である。地中海はまだ残っているが、インド大陸は5千万年前にユーラシア大陸とぶつかった。インド大陸の地殻は厚くなく、比較的軽いので沈み込むことなく、ユーラシア大陸に圧力をかけ、ヒマラヤ山脈とチベット高原を隆起させた。
中生代には現代社会に欠かすことのできないものができた。中東の石油である。石油を溜め込んだアラビアプレートは、先カンブリア期から中生代に渡ってゴンドワナ超大陸の北側に位置し、消長の激しい大海に面していた。ゴンドワナ大陸は南にあったので、アラビア・プレ−トは赤道圏内に、ほかの大陸と衝突もせず、また、マントルに沈み込むこともなく、安定に維持された。
中生代にはテチス海に没することになり、そこで大量の有機物を溜め込んだと思われる。温暖なテチス海は次第に閉じて、アラビア・プレートだけでなく、他の北アフリカやアメリカの油田地帯も生み出した。 アラビアプレートは現在、ユーラシア大陸と衝突中で、イランのザクロス山脈を隆起させている。いずれアラビア・プレートも、巨大なユーラシア大陸へ突っ込んでいくはずなので、現在の中東油田も破壊されてしまう。
パンゲア超大陸が裂けるときは、大規模な火山活動が陸上に発生した。それまで、南極まで温暖だった気候が寒冷化した。生物相に大きな変化があった。被子植物が裸子植物にとってかわった。また、被子植物が作り出した色彩豊かな蜜を持つ花は昆虫をひきつけ、両者に共生関係が成立した。鳥類は現在のグループのほとんどが出現した。海では硬骨魚類が現れた。
植物界の変化は、恐竜の種類にも影響し、ジュラ紀型から白亜紀型に変化した。巨大化する一方だった竜脚類・雷竜(ブラキオサウルスなど)や剣竜(ステゴサウルスなど)は絶滅し、より機動的で、集団生活をするイグアノドンの仲間や角竜(トリケラトプスなど)が取って代わった。
白亜紀の終わり、6500万年前に生物界は史上2番目の大絶滅を経験した。その原因は、隕石の衝突とされている。直径約10kmの彗星か小天体が現在のメキシコ湾に落下した。衝突によって、大津波などの直接効果で多くの生物が犠牲になった。一方、間接的に、ちりやガスが、成層圏までたくさん舞い上がり、太陽光をさえぎって、地球を寒冷化させた。植物が一時的に大打撃をうけた。食物連鎖の頂点にある動物ほど受ける打撃は大きく、恐竜の絶滅の大きな引き金になった。
哺乳類の祖先は単弓類である。単弓類はペルム紀に繁栄し、爬虫類に似た盤竜類と哺乳類に似た獣弓類に分かれた。ペルム紀末期の大絶滅(2.5億年前)で盤竜類は絶滅。獣弓類は三畳紀に生き延びたが、末期に絶滅した。三畳紀末期に獣弓類から哺乳類の祖先が進化したと考えられている。体毛を持ち、当時は、まだ、卵を産んでいたが、子を乳で育てたとされている。
ゲノムの解析から有袋類と有胎盤哺乳類の祖先は1 億8 千年前に分岐したと推定される。最も古い有袋類の化石は1.25億年前、中国で見つかった。有袋類は南アメリカとオーストラリアに残っているので、有袋類は全大陸に住んでいたと予想される。同じように1.3億年前の犬猫サイズの哺乳類の化石も中国で見つかった。恐竜の子供の骨が腹の中から見つかったこともあり、恐竜の餌として細々と暮らしていた哺乳類のイメージが変わる可能性がある。
現在みられる有胎盤類は約9,300万年前に出現した。有胎盤哺乳類は恐竜が絶滅した約6500万年前の北半球のローラシア大陸で爆発的に進化し、拡散したと考えられる。すでに大陸が分裂していたので、有胎盤哺乳類は陸続きの大陸にのみ進出した。
長い中生代の間に哺乳類は形態的にはあまり発展しなかったが、機能的には大きく発展したはずである。恐竜によって生態系の隅(食物連鎖の下)にいたことで、劣悪な環境での生存能力を身につけ、情報処理能力を発達させたのではないか。夜や洞窟などの暗い環境で生活する能力。子を乳(もともとは汗であった。乳腺は汗腺が変化したもの)で育てる確実な繁殖方法。多様な歯を持ち、いろいろなものを食べられる雑食性。体温維持の機構やおそらく冬眠のような習性。危険を察知する耳(聴力)と情報処理能力。これらの基本的な潜在能力により、中生代の終わりとともに恐竜が滅んだあと、地上の捕食者の位置に哺乳類が進出した原動力となった。
哺乳類や鳥類は両者とも、力の弱った(環境への適応力を欠いた)恐竜を追いながら食物連鎖の頂上の世代交代を果たし、恐竜を絶滅させたのであろう。より能力の高い真獣類は有袋類を追いながら進化し、生存の場所を広げた。南アメリカとオーストラリアが長い間孤立した大陸であったため、そこに有袋類が保存されることになった。南と北のアメリカ大陸がつながった(パナマ地峡ができた)のは数百万年前である。
超大陸パンゲアが小さな大陸に分裂し大西洋海盆が開くに伴い、酸素濃度がほぼ2倍になった。大陸縁辺沿いに生息する植物プランクトンの進化によって、海洋堆積物中の有機物質量が大幅に増加して大気中に放出される酸素が増加した。鳥類・哺乳類の代謝には爬虫類と比較してかなりたくさんの酸素が必要であり、また、有胎盤哺乳類の多様化が起こった時期は大気中の酸素濃度が高い時期と一致する。赤ちゃんをおなかの中(胎盤で)育てるためには十分、高い酸素濃度が必要である。
新生代での哺乳類の進化はめまぐるしい。まず、3000万年の間に多くの哺乳類の祖先形が出現した。地球は急激に寒冷化に向かい、多くのグループが絶滅した。2000万年前には現存の哺乳類の祖先が出揃った。生物の分類は種、属、科、目、綱、門、界とあり、絶滅の時の基本単位は科である。それをもとに絶滅と出現のバランスを見ると、6500 万年中、4000万年の間は、ほぼ1000万年に35科ほど出現。絶滅数は少しずつ増えて、今から2500万年前の漸新世(3400〜2400万年前)には出現数とほぼ同数になっている。その後、出現数は少なくなり、1000万年に20科、一方、絶滅数は第四紀に入って急増している。とくに、第四紀の更新世(180〜1万年前)では1000万年あたりに換算すると80科になる。人類の影響である。
哺乳類は、この時代を代表する動物であるが、それ以外にも鳥類や、硬骨魚類の真骨魚も新生代に大発展した動物である。
被子植物は、私たちの身の回りに普通に見られる花の咲く植物である。被子植物の確実な証拠は白亜紀の初め約1億3000万年前の花粉化石である。被子植物は裸子植物から誕生したと考えられているが、裸子植物との関連、どの裸子植物を起源とするかはまだ分かっていない。
裸子植物、被子植物はいずれも維管束に由来する硬い体を持つ。ジュラ紀の恐竜は硬い植物をすりつぶすことができなかった。巨大な雷竜は胃の中に石を持っていた。鳥の砂嚢のようなものである。歯は葉を引きちぎるだけの役目しか果たさなかった。白亜紀の草食恐竜は頬を発達させ、臼歯を作り出すことで植物をすりつぶすことができたと考えられる。
白亜紀には花をつける被子植物が一気に多様化した。白亜紀後期に主要なグループが出そろった。被子植物が花粉やみつを提供し、昆虫が植物の花粉を運ぶようになると、両方の生物の間の相互作用が豊かになり、両者ともに多様化した。その基本はハナバチである。ハナバチの祖先は1億年前(白亜紀)にさかのぼる。ハチなどの昆虫は琥珀(こはく)の中に閉じ込められた形で保存される。
被子植物は単子葉類と双子葉類に分けられる。双子葉類のほうが起源が古いようである。単子葉類は草原でもっとも繁殖力の強い植物で、イネ科の植物がよく知られている。光合成をする速度も大きく、環境がよければ最も早く成長する。一般に風媒花である。双子葉類は形態も大きく異なる多数の種からなる。形もさまざまで木、草花、蔓、浮き草のように葉と根だけのもの。大部分は自生するが、ヤドリギのように寄生するものもある。世界最大の花ラフレシアはスミレの仲間であるが、完全寄生植物である。生育環境も多種多様で、砂漠のサボテンから、水中の睡蓮やホテイアオイまである。
1億年前をピークに、気温が下がり始めた。ところが、5500万年前後に一時的に温暖化した。その原因はメタンハイドレート崩壊説が有力であるが、火山や海流の大きな変化も考えられる。このときに裸子植物から被子植物へ交代が進行した。哺乳類の拡散が促進された。
恐竜では、すべての歯がほとんど同じ形だったのに対し、哺乳類は、前歯と奥歯で機能を分化させた。よりうまく食べ物をかみ砕き、すりつぶことができる。哺乳類の中でも植物を食べるのにもっともうまく適応しているのが、偶蹄類のウシやシカのなかまである。このグループはたくさんの植物をいったん胃にたくわえ、柔らかくなってから、もういちど口にもどしてすりつぶし、再び飲みこむ。これを反芻という。反芻することで、食いだめすることができるし、固い草もしっかり消化して栄養にすることができる。
被子植物では一年生の植物が誕生した。体も硬くなく、季節に合わせて成長し、枯れる。寒い冬は長く生きられる種で過ごす。第三紀の終りより地球が寒冷化し、寒い冬が訪れるようになったので1年生植物が繁栄した。1年草は多数の種を残し、本体は枯れてしまう。したがって、世代交代が早い。また、落葉樹は秋に葉を落とし、生産活動を終了して寒い冬を乗り越える。これも寒冷化に適応した結果であり、それまでの地球には存在しない生き方ではなかったか。過去の大絶滅は寒冷化が大きな原因であり、寒冷化に対する最大の適応戦略は1年草かもしれない。温帯に生息する昆虫も寒さに強い卵や蛹を作り出し、1年で世代交代する種類が多い。
各大陸での隆起運動で大陸の内部に高原や台地がひろがった。500万年前ごろから寒冷化が進行した。大陸の内部には乾燥気候がひろがり、イネ科の植物が発展した。大陸には草原ができた。そして、このような草原に適応した新しい種類の草食動物が発展した。私たちの祖先のサルのなかまも森林の樹上生活から草原に出て、2本の足で地上を歩き出した。アフリカでは300万年前から寒冷化とともに、気候変動が大きくなり、乾燥が進んだ。同時に平地では森から草原へとゆっくりと切り替わった。ちょうど原人が出現し、繁栄するのと一致する。
現在、被子植物は約400科、25万〜30万種がある。新生代第三紀に多くの現在まで繁栄している属が出現した。哺乳類と同じように、約1000万年前に現生種が出揃い、約200万年前までに、第三紀を特徴づける種が消滅した。
恐竜が滅び、中生代が終わった。新生代は、第四紀とよばれる氷河時代とそれ以前の第三紀にわけられる。第三紀の4000万年前ぐらいまでは概ね温暖であった。中緯度地方まで亜熱帯となり、極地方は亜寒帯気候で寒帯気候は見られなかった。
北極海海底の掘削により、過去5500万年の北極の気候変化が明らかにされた。過去5500万年にわたって寒冷化してきたが、特に4500-2500万年前に劇的に二酸化炭素が減少することで地球は大規模に寒冷化した。南極大陸はパンゲア超大陸の南端にあったが、緑の植物に覆われていた。
約3500万年前にオーストラリアが南の大陸塊から次第に分離して北上した。約3000万年前に南極は現在の位置にまで移動し、最後まで連絡していた南米と分離した。その結果、南極大陸のまわりを回る寒流、南極海流が形成され、暖流を遠ざけるようになった。南極大陸は現在のように凍りつき、厚い氷床が発達した。氷床の発達と500万年前以降の地球環境の寒冷化は同時進行している。南極大陸を覆う氷床の厚さは4000mに達する。南極大陸に氷床ができたことで世界の海水面は約70m下降した。また、南極大陸の基盤は、氷床の重さで500mも沈んだ。南極大陸の巨大な氷床は冷熱源として地球環境に影響している。
インド大陸がアジアにぶつかり、アラビア半島がトルコにぶつかり、アフリカがヨーロッパに接近した。その影響で1500万年前からヒマラヤ、ロッキー山脈が隆起し始め、大規模な火山活動もあった。巨大山脈は氷河を擁き、アルベド効果により寒冷化に貢献した。
300万年前にも寒冷化が進行した。この原因として現在2つの説が提案されている。1つはパナマ陸橋の形成である。陸橋ができると、大西洋から太平洋へ流れていた深層水が遮断され、また、メキシコ湾流も大きく北へ流れることになった。暖かいメキシコ湾流は北米での降雪量を増加させて、寒冷時には氷床を拡大させて寒冷化を増幅した。グリーンランドはそれまでは名前どおり緑の島だったが、氷河の島に変わった。2つめはヒマラヤ山脈、チベット高原の形成である。これらの地形的な高まりが北半球の大気循環を乱した。インドを中心にモンスーン気候を成立させ、冬はシベリア寒気団を強化した。その結果、寒冷化を引き起こしたとする説である。
海水面の上昇・下降は短期的には地球の気候、陸上の氷床の体積によって左右される。氷床ができると、太陽光線を反射するアルベド効果により成長が促進されて安定化し、逆に氷床が消えるときは速やかになくなる。新生代に限ると、氷床ができる程度にまで地球の平均気温が下がったのは1500万年前からである。
平均気温が下がると、大気が含む水蒸気の量が減る。すなわち、大気が運ぶ水の量が減る。大陸の内部まで水が運ばれないために、大陸の中央部は乾燥化する。概ね、寒冷化は乾燥化、温暖化は湿潤化である。寒冷化は草原や砂漠を拡大し、温暖化は森林を拡大する。現代の地球温暖化と砂漠化が結び付けられて議論されることが多いが、両者の共通点は人類の活動の結果であることで、実際には温暖化が進行すると、砂漠は縮小する。
約1000万年前から、アフリカ東部の直下に高温のマントル物質がゆっくりと上昇し、アフリカ大陸が裂け始めた。アフリカ大地溝帯は、陸上に出現した海嶺であり、このような場所は他にアイスランド、アメリカ合衆国のデスバレーに見られる。アフリカ大陸の東側を南北に2列に貫く谷であり、北は紅海となって、地中海に向かっている。アフリカ大陸は、この大地溝帯を境にして現在も東西に分裂しつつあり、付近では地震活動や火山活動が続いている。地溝帯のデスバレーや東アフリカのジブチの塩湖、イスラエルの死海は海面より低いところにあり、谷底には、多量の塩分が堆積する。これから数千万年後には海が入るであろう。
今から600〜500万年前に、地中海が干上がった可能性がある。地中海と大西洋をつなぐジブラルタル海峡は、幅20km、深さ200〜400mの浅い海峡である。世界的な海水準の低下によって、ジブラルタル海峡が陸になり、イベリア半島とモロッコがつながり、地中海は湖になった。そのあと、気候が乾燥したために海水が大規模に蒸発した。蒸発岩といわれる、石膏や岩塩が地中海沿岸のスペイン、イタリア、ギリシャ、チュニジア等の国々で見つかる。また、地中海の深海底を掘削した深海掘削計画の研究プロジェクトでも、同じように蒸発岩が確認されている。
500万年ほど前には哺乳類も草原に適応した種が出現した。犬や狼、馬の祖先、人類の祖先である。鳴禽(めいきん)類と呼ばれる、さえずる小鳥たちが大発展した。鳴声によるコミュニケーション、敏捷な運動能力が優勢となった原動力と思われる。
黄土が堆積し始めたのは、中国黄土高原では約250 万年前からであり、その多くが約200 万年前から始まった第四紀に入ってからである。チベット高原の隆起によって熱帯との大気循環が遮断され、中国内陸部が乾燥するようになったからであろうと推定されている。
100万年ほど前から氷期と間氷期が約十万年の周期で交替した。この時期を第4紀と定義する。周期を解析するといくつかの周期が重なっている。気候変化の外因として、地球と太陽との距離(10万年周期)、地軸の傾きの変化(2万年周期と4万年周期)に伴う日射量の変化が考えられている。しかし気温や氷床の量などの変化はそれ以上に大きく、大気、海洋、地形などが増幅機能として働いていると考えられる。
氷期の最盛期には氷河が北半球の北部を広く覆い、間氷期になるたびに氷河湖の決壊による大規模な洪水があった。イギリス海峡の海底には、壊滅的な洪水が40万年前、20万年前の2回起こった証拠が残されている。大規模洪水によって、ブリテン島は、現在のような大陸から切り離された形になったのだろう。
産業革命以後の近年の地球環境の変動は、過去の大規模な変動に匹敵する。この変動は人間活動に起因することから、Anthropogenic(人間活動による)からAnthropocene(第5紀?訳語不明)という新たな時代区分が古典的な地質学と関係のない分野で導入されている。この時代区分は、定義が地層に依っていない。地質時代の区分は地層に記録された生物種の消滅や地球環境の変化で決められるので基本的な考え方は同じである。
日本列島の岩体のうち、古いのは東北地方の北上山地、飛騨山地にある。この岩石は付加体ではなく、浅い海で堆積したと考えられる。おそらくバリスガン造山運動以前にゴンドワナ大陸北側、中朝陸塊のパンサラサ洋側に位置した大陸性の堆積物として蓄積していた。含まれる古生代の化石から推定すると、赤道近くの南半球である。
各地の鍾乳洞の起源は古生代まで遡る。地層の石灰岩体中に約3億年前の示準化石であるウミユリやフズリナの化石が含まれている。鍾乳洞を作り出す巨大な石灰岩体は関東から東海、紀伊、中国・四国を経て九州中央部にまで広がっている。石灰岩体は、遠い南の海で、玄武岩質岩石の海底海山上で発達した珊瑚礁で、プレートの運動によって北上し、中生代ジュラ紀〜白亜紀の地層に取り込まれた付加体である。
日本列島が、現在のような形になったのは新生代の中ごろである。約3000万年前までの日本列島は新しく作り出されたアジア大陸の東のへりに位置し、激しい変動があまりなかった。約3000万年前、現在の日本海の位置は大陸であった。九州や北海道には内湾ができていて、そこに植物化石が堆積した。日本の石炭のほとんどはこの時代のものである。内湾は日本海の兆しである。
約2200万年前を中心には東アジア一帯に巨大な断層活動が起きた。日本海側に大きな断層ができ、海が入り込んだ。同時に海底火山の噴出がはじまった。火山の活動は非常に活発で、溶岩や火山灰が全国に渡り、大量に厚くたまった。将来、日本列島となる東北、南西部分が太平洋側に膨らむようにして回転、移動し、日本海が膨らんだ。
約1000万年前には日本列島の背骨にあたる中央部が隆起して海から顔を出した。その後、日本海はだんだんと現在の姿に近くなってきた。新潟や秋田などの地域はまだ海で、砂や泥が厚くたまっていた。この地層から石油が産し、ここは日本の主要な油田地帯になっている。約20万年前には現在の日本列島の形になった。間氷期には海面が高くなり、氷期には大陸と陸続きになった。
日本列島は、南東へ向かうユーラシア・プレートの上に乗った陸塊と、西へ向かって移動してきた太平洋プレートが衝突したところにある。その間に北米プレートとフィリピン海プレートが挟み込まれている。北米プレートと太平洋プレートが接しているのは関東から東北、千島列島へと向かう太平洋側で、日本海溝を形成している。北米プレートは北東方向から南西方向に向かって移動している。北米プレートもユーラシアプレートも陸塊を抱え、ぶつかった地点で地球の内部にもぐりこめない。境界は新潟県から、長野県を通り、静岡県、駿河湾へと抜けるフォッサマグナと呼ばれる大断層地帯となっている。その部分に、南からフィリピン海プレートがもぐりこみ、ぶつかった北端は陸塊がうちこまれた状態になった。打ち込まれた陸塊は丹沢山塊や伊豆半島であり、その力で北・中央・南アルプス及び八ヶ岳が隆起した。紀伊半島のあたりは北米プレートにより南西方向に押し出されている。
太平洋プレートは北海道付近から北米プレートの下にもぐりこんでおり、もぐりこみの上に千島列島が形成された。西日本のユーラシアプレートの下にはフィリピン海プレートがもぐりこみ、琉球諸島が形成された。太平洋プレートはフィリピン海プレートの下にもぐりこみ、小笠原諸島が形成された。
霊長類の祖先の最も古い化石は約6500万年前(白亜紀末期)のものである。他の哺乳類と同様、約3500万年前には現代型霊長類に代わっている。2つのグループ、今のキツネザル類・ロリス類グループと、メガネザル類と真猿類(ヒト・類人猿・旧世界ザル・新世界ザルを含む)グループの祖先が発見されている。現生霊長類のうち、真猿類以外のものを原猿類と呼ぶ。キツネザル類はマダガスカル島のみに、ロリス類はアフリカ大陸と東南アジア、メガネザル類は東南アジアに生息している。
旧大陸の真猿類は、アフリカ大陸に出現した後、ユーラシア大陸に進出した。約3000〜2500万年前に、ニホンザルなどを含む旧世界ザルと類人猿やヒトを含むホミノイドの2つのグループに分かれた。旧世界ザルとホミノイドは集団で生活する。化石記録から見ると最初はホミノイドの方が繁栄していたが、約1000万年前から旧世界ザルが勢力を増してその比率は逆転した。現在ではヒト以外のホミノイド(すなわち類人猿)はほとんど絶滅寸前である。
約500万年前のアフリカの東部は今よりもずっと雨が多く、湿潤な森林であった。たくさんの類人猿がグループで生活していた。ゴリラはハーレムをつくる。これに対してチンパンジーは、複数のオスが複数のメスと暮らす。東南アジアの類人猿であるオランウータンやテナガザルは単独で生活する。人類の祖先は東南アジアでは発見されないので、人類の祖先(猿人)はアフリカ類人猿型の社会生活を送ったと予想される。いずれも樹上生活者で木登りが上手である。樹上では外敵も少なく、食物連鎖の上位にいたと思われる。
樹上生活の巧者になったことで、霊長類の祖先は手の運動・感覚が発達した。手指を動かす筋肉は一方で運動の感覚器である。筋肉の長さや収縮速度を感じ取っているので、指がどれくらい曲げられているのか、指先がどれだけ広がっているのかを脳に伝達する。目からの感覚情報が脳を経由して、手指を動かす筋肉へ指令が行き、手指に準備させる。掴んだ枝が体重を支えるのに十分であるのか、たわみ具合はどうか、サルは瞬時にそれを感知して、ふさわしい行動をとる。脳と手の機能とは共進化した。
直立二足歩行と犬歯の縮小が類人猿と人類を分ける特徴とされている。直立二足歩行に必要な筋肉の一部は樹上生活にも必要である。猿人の前腕の骨の形態から、直立二足歩行は類人猿的なナックル歩行から進化したと唱える研究者もいる。樹上生活の祖先に、たまたま二足歩行に適した骨盤を備えたものが現れた。そのような個体はむしろ樹上の行動は制限されたが、地上での採取活動に有利であった。
二足歩行は樹上生活の中で進化した。オランウータンはその直系の子孫らしい。アフリカでは森林のサバンナ化に伴って、まばらになった森林(天蓋を作れない)に残って、木々の中で上下運動をするゴリラやチンパンジーの仲間と、サバンナで生活するホモの仲間に分かれた(800-500万年前)。ゴリラやチンパンジーは二足歩行からナックルウォーキングと変化して、猿人はナックルウォーキングは行わなかった。
完成された直立2足歩行を行う最初の類人猿は化石ルーシー(300-400万年前)で有名なアウストラロピテクス・アファレンシスである。
猿人を類人猿の近縁種と見なして、原生の類人猿の「能力」をまとめておくのも意味があるのではないか。
人とチンパンジーの脳は大きさ以外に解剖学的にはそれほど違いがない。チンパンジーとヒトのゲノムを比較すると、98.5%が相同である。しかし、6000個のプロモータ部分だけを調べると、10%ほどの違いになり、その違いは脳の機能と栄養の摂取に関係する遺伝子に集中した。ほかの動物との違いを比較して、特にチンパンジーと人とが分岐した跡に変化したと推定される領域(human accelerated region, HAR)が49箇所も同定されているが、脳の機能と関連する遺伝子との関連は不明なままである。
アフリカのチンパンジーは実ができる木とその季節を知り、芋が育つ空き地を知り、食用になるキノコや多くの甲虫の幼虫が棲息する倒木の位置を知っている。植物だけで200種類は食用にしている。おそらく、群れの中で食べられるものの情報が伝承される。群れは食料を調達するために縄張りを確保し、リーダーに率いられて移動する。
二本足歩行を行う猿人は、他の猿人に比べ、平地を移動するときに手が独立して動く点で有利と考えられる。チンパンジーも蟻を吊り上げたり、硬い木の実を石でつぶすなど、簡単な道具を使う。道具を使うためには手の筋肉と手を支える骨格、そして調和のとれた行動を制御する脳が必要である。地下や朽木の中の昆虫を餌とするには、指先が器用で、力をコントロールできる個体が有利であった。猿人は棍棒を握って集団で防衛体制をとれば肉食獣から群れを守ることもできただろう。
最初の人類は体重30 kgほどの小型だった。初期人類は直立二足歩行へ進化を踏み出した後も、類人猿に比べて脳はそれほど大きくはなく、成人の脳の重さは800g〜900gであった。
直立二足歩行は倒立振り子の原理を応用したエネルギー効率の良い移動方法だ。重心が上にある棒をゆっくり倒すと、重心は前に移動するが、重心の下がりはそれほど低くない。右足を軸にして体を前に倒し、重心が移動したところで左足を前に出して体を支える。今度は左足が軸足となって重心を前に移動する。この繰り返しである。効率的な直立二足歩行はひざをまっすぐに伸ばす。
チンパンジーは30種類ほどの音声を使い分け、感情を表現する。音声の組合わせや意味する内容の研究が進行中である。
原人は大きく分けて2種類存在する。華奢なタイプ(ホモ属)と頑丈なタイプ(パラントロプス属)である。猿人は250万年前頃にパラントロプス属が現れた時期を境に、化石から姿を消している。
パラントロプス属はホモ属に比べて体が大きく、硬い臼歯を持っていた。また、頬の骨が発達しているので顎の力が強かったと思われる。繊維質の多い硬い植物を摂取するのに有利であった。パラントロプス属は、ほぼ同時期に出現したホモ属としばらく共存していたが、約100万年前に絶滅した。
パラントロプス・ロブストスと呼ばれる原人の頭の化石は南アフリカのSwartkransの洞窟で見つかる。この洞窟には180-120万年前の動物の骨も見つかる。この洞窟は肉食動物の棲家であって捕らえられた獲物が引き込まれ食べられた。頑丈な頭をもつ原人は硬い部分が食べ残され、たくさんの頭化石が蓄積したと考えられている。
現在のヒトの系統であるホモ属が出現したのは約200万年前と考えられる。最も古い原人の化石は220万年前の地層から発見された。ホモ属は現代人と体躯が同じ大きさにまで発達した。未熟なまま子供を出産し、出産後も脳が発達するという二次的晩熟性を示した。さらに、原人たちは加工された打製石器を使い、火を利用した後を残している。
原人の特徴は著しい脳の大型化である。脳の大型化は200-100万年前あたりで加速した。大型になるための直接的な遺伝子の変化は単純だったろう。マカク類とヒトの脳の大きさの違いは10倍であるが、脳の発生学過程から見ると、前駆細胞の分裂期間が3日長くなるだけである。他の哺乳類に比べると神経接続の数が多く、それが大きな脳を形成している。
大型化した脳は大量のエネルギーを必要とする。ヒトの脳の発達は他の哺乳類に比べて遅い。体の成熟も遅くなっている。エネルギー消費量の多い脳を発達させるために体の成長が犠牲になったという説がある。肉食をするようになって脳の拡大が起こったとは考えにくい。肉食動物は必ずしも脳が大きくないからだ。図らずも大きな脳を抱えてしまったために何でも食べ始めたと考えたほうがよいかもしれない。火を使うことで消化のよい食物を手に入れた。内臓が使うエネルギーを脳にまわせるようになった。
子供の成熟に時間がかかるようになると、子供の教育が男女の共同作業となり、原人の時代に男女の絆が固定されたのではないか。もう少し拡大解釈すると、子供の教育はその集団の共同作業として重要性を増した。類人猿に見られるように男たちがセックスを巡って常に争うことがなくなり、セックスが私有化され、集団の協力体制を高めたかもしれない。
学習などで起こった行動の変化が好ましい場合、その変化を支持するような遺伝子の変化を選抜する自然選択が起こる。すなわち、行動や知識から遺伝子の変化の方向付けが起こる。原人以降、新しい文化が進化を推し進め始めた。
原人は皮膚が黒くなった。メラニン色素の割合をコントロールするメラノコルチン受容体遺伝子について、サイレント変異を用いた遺伝子時計を調べると現在の黒人のメラノコルチン遺伝子は120万年前に固定された。この年代はこの遺伝子変異が人類(ホモ属原人)全体に拡散した時代と考えられる。黒い皮膚の色が選択されたのは現代の人類のように体毛が薄くなったためだろうか。
アフリカで誕生した原人は、氷期-間氷期のサイクルを生き延びた。原人がアフリカ大陸を離れたのは約100万年前と考えられている。天敵であった肉食動物の脅威を受けなくなった原人は海岸沿い、河川沿いに棲息領域を広げ、アフリカ大陸全土、ユーラシア大陸の南側、西は地中海沿岸から東は中国、ジャワ島まで分布するようになった。地域によってさらに種分化が進んだ。直立原人は北京やジャワ島で発見されている。
過去数百万年は、4万年から10万年の周期で氷期が繰り返して訪れた。特に、80万年前からは10万年周期が卓越している。気候周期の歴史は深海に堆積物として保存され、また、過去20万年ほどであれば、南極の氷河に記録されている。掘削されたサンプルの中の様々な原子の同位体が調べられ、堆積物の中にある岩石により年代が決定される。よく用いられる同位体は酸素18の含有量である。海底の堆積物を調べて、酸素18の濃度が酸素16に比べて相対的に高くなると寒冷、低くなると温暖である。氷河では逆で、降水や雪に含まれる酸素 16に対する酸素18の量は気温が高いほど大きい。
同位体の変動の周期は、数学的な解析により3種類の波に分けられ、その波は、地球の軌道要素が変動する結果、生じる太陽放射の変動と関連している。地球のみならず、惑星の軌道要素は、離心率、地軸の傾斜角、歳差運動の三つがある。
離心率は地球の公転軌道の楕円の程度を表す数値で、これが変わると地球と太陽の間の距離が変化する。離心率の変動は約40万年と約10万年の周期をもつ。地軸の傾斜角は地球の自転軸と公転軌道面との間の角度で、 24.5°〜22.1°の間を4万年の周期で変動する。傾斜角が大きいと、日射は夏季は強く、冬季は弱くなり、すなわち、季節変化が大きくなる。歳差運動は傾いた地軸がゆっくりと回転する首振り運動である。約2.3万年で1周する。半分の時間で夏と冬が逆転することになる。
これらの変化は日照時間や角度がわずかずつ変動するだけだが、生物活動による温室ガス(二酸化炭素、メタンなど)濃度の変化、氷河によるアルベド効果が、わずかな差をポジティブ・フィードバック的に増幅し、平均気温を大きく変動させると考えられている。南極の氷河の泡の中の空気組成を大規模に調べ、二酸化炭素、メタンの大気中の濃度は気温の変化とよく相関していることが示された。
氷河期はその名のとおり、陸上に氷河が存在した時代である。海から陸へと水が移動したことになる。50万年前から気温の振幅の幅がやや大きくなり、氷期のながさが長くなる傾向が認められる。氷河期のなかでも寒冷な時期を氷期と呼ぶ。最近の3回の氷期はミンデル氷期(30-23万年前)、リス氷期(20-13 万年前)、ウルム氷期(7-1.2万年前)である。この間、海水準が約100m低下した。極では生物の生存可能な陸地は狭くなり、赤道付近では陸地が増えた。また、海の水が少なくなった分、塩分濃度が上昇したと思われる。陸上生物にとって、気温と植生が、海生生物にとって、塩分濃度が比較的短期間で変動したことで種の分化が促進されたことであろう。
アフリカに残った原人の中から現代人の兄弟である旧人が出現した。ネアンデルタール人が有名である。彼らは脳容積がほぼ現代人に等しい。ネアンデルタール人の化石骨からゲノムDNAの解析が行われ、現生人類とネアンデルタール人のゲノムは、少なくとも99.5%が同一であることが判明した。
ネアンデルタール人は、ゲノムDNAの解析から、現生人類の祖先と約70 万6,000 年前以降、33 万年ほどの間に分岐した。ネアンデルタール人はほぼ人間と同じ脳容積を持ち、骨格もほぼ同じである。新しい複雑な石器技術を生み出した。ネアンデルタール人はヨーロッパと西アジアに住んでいたとされるが、最近ではウズベキスタンやシベリア南部でも見つかっている。
70-5万年前はヨーロッパではネアンデルタール人が、アジアではスンダランドを中心に直立原人が住んでいた。間氷期には北京あたりまで生息域を延ばし、氷期にはスンダランドに戻るということを繰り返していたのではないか。
最近、小人の原人フローレンシアが発見された。フローレンシアは2万年前までインドネシアの島で生き延びていたが、手首の骨の構造から原人と考えられている。microcephalic osteodysplastic primordial dwarfism type IIと呼ばれる遺伝病がある。PCNTという遺伝子の変異であるが、小型の体と脳を持つようになる。フローレンシアはこの遺伝子変異を持っていたのだろうか。
ネアンデルタール人は話せなかったのだろうか。意見は2つに分かれているが、話せるという積極的な証拠がない。旧人が言語能力を持った場合に見合うだけの技術の発達がなかったため、旧人は話せなかったと考えられる。解剖学的には発生可能な母音が限られるので、言葉の数が少なかったと考えられる。少なくとも現代人が話すような体系的な言語活動はなかっただろう。
人類が火を利用した痕跡は79万年前の中東にさかのぼる。火を使用した跡はこれより古いものがアフリカでも見つかっていない。当時の人類は原人であった。50 万年程前には中国で、40万年ほど前にヨーロッパで火を利用した跡が発見されている。火を利用するとは、火をコントロールする技術を持っていたことだ。火を手に入れ、維持する知識と道具があったはずである。原人が発明した火の利用法はネアンデルタール人、そして現代人へと受け継がれた。直立原人やネアンデルタール人は打製石器を用いていた。ネアンデルタール人は大型動物を狩った様子がない。
分類では種の上に属があり、その上に科、目となる。霊長目(いわゆるサル)は180−200種。その中でヒト科は、ホモ・サピエンスたった1種しかいない。明らかに異常である。ヒト科だけが特別の進化をしたはずはない。他の種と同様、多くの属、種が生まれ、滅んだと考えられる。
現代人は最終間氷期(エーミアン間氷期)は12.5万-9万年前にアフリカから中東まで進出したようだ。が、アフリカを出た人類は中東にいたネアンデルタール人に滅ぼされたようだ。
現代人、ホモ・サピエンスの直接の祖先が誕生したときはちょうどリス氷期(20-13万年前)にあたり、場所はアフリカ大陸であった。氷期では熱帯地方は乾燥したと考えられる。広々としたサバンナが縮小した熱帯雨林を囲み、砂漠は拡大した。
現代人のミトコンドリアDNAの系統樹を作成すると、アフリカ人の枝のひとつが他の人種、白人、アジア人となる。この系統樹に基準としてチンパンジーを加え、ヒトとチンパンジーが分岐したのを500万年前と仮定すると、現代人の共通祖先は約20万年前となる。系統樹は「分岐した」という仮説で作られるので、これだけでは証拠にならない。現生人類にきわめて近い特徴をもったホモ・サピエンス・イダルツ(約16万年前)がエチオピアで発見され、「アフリカ単一起源説」がほぼ確認された。
南アフリカのピナクルポイント付近にある海食洞遺跡では沿岸資源を利用していた証拠が発見された。16万4千年前である。人類は海を生活の場とすることで貝という革命的な食料を得て発展したのであろう。狩猟採取社会で、貝は採取によって良質なタンパク質を提供し、おそらくは女の生産に対する貢献度を高めたと思われる。南アフリカにはブロンボス洞窟遺跡やクラシーズ川河口の洞窟遺跡群があり、革製品用の骨器を使用したり、身体の装飾に用いるために赤い顔料を使ったり、幾何学的な模様を彫っていた。また彼らは、小さな炉床で火を使ったり、様々な動物や魚を獲ったりしていた。また、船などの技術を発展させ、定着性が増したために子育てに向ける時間も多くなり、人口も増えたであろう。
火は、種々の使い方がある。暖房。調理。灯り。武器。原人、旧人、現代人が世界各地に居住地を拡大できた秘訣は火の利用であったと考えられる。温帯地方でも冬がある。冬を乗りきるために暖房として、また、保存性の高い硬い木の実や干し肉を食用にするために役立ったであろう。寒さに耐える技術は、寒冷地である高地を越える技術でもあった。さらに、加熱すると細菌などの微生物が死滅する。茹でたり焼いたりすると硬い食べ物も軟らかくなる。未知の地で発見された食物も、加熱することで食用にできたものが多かったであろう。 原人、旧人がどのようにして火を手に入れたかは不明である。現代人は木をこすり合わせて、摩擦熱で火を起こしたと考えられる。
エチオピアと南アフリカのどちらが現代人の故郷かははっきりしない。どちらの可能性もあるが、別の場所である可能性もある。
現代人の特徴として、体毛を失ったこと、言葉を話す能力があったことの2つを挙げたい。体毛を失ったことにより、衣服を工夫した。逆に、衣服の発明が温帯の凍える冬を乗り越え、氷河を渡る基本技術となった。体毛の矮小化にかかわる遺伝子の解析が待たれる。言葉を話す能力については、様々な要素が関連する。発声器官から出た音をコントロールする筋肉を発達させ、多様な音素を作り出し、言葉によるコミュニケーション能力を身につけた。これらの頭部の筋肉群を支配する神経系はセットとして複雑化したのではないか。脳の頭部運動神経を支配する領野は手の運動神経を支配する領野の隣にある。推定であるが、2つの領野は関連して発達したのではないか。
FoxP2は会話に必要な遺伝子として2001年に報告された。現代人としての変異が20万年前である。FoxP2は転写因子で会話に欠陥がある家系で変異のある遺伝子として見つかった。この遺伝子を欠くマウスは異性をひきつけるための超音波の泣き声が出せない。コウモリのソナーはこの遺伝子の働きに関係する。キンカチョウ(zebra finch)で、この遺伝子を阻害すると、歌の学習能力が低下し、歌の安定性が低下した。類人猿でも500万年前におきた変化が1箇所ある。
85000-50000年前: 20万-5万年前の現生人類は石器などの道具や暮らしぶりからみると、原人よりちょっとよくなった程度。85000年前ごろ、現生人類はアラビア半島の東側の海岸線を通って、東へと拡散した。最東端はオーストラリア、日本である。
現生人類のアフリカからの旅立ちは一度きりで、その集団の規模は数百人程度だったとされている。時期は約85000年前よりも最近だと考えられているが、明確に突き止められていない。数百人の集団が一緒に生活をしていたとは思われないので、数十人の群れが短い期間に中東近辺に入植したのであろう。
アフリカから出るルートは2つ考えられる。紅海の北端、シナイ半島経由。もう一つは紅海の南端、バベルマンデブ海峡を渡る。氷河期には小島の点在する海であった。シナイ半島は当時はネアンデルタール人の居住地であり、こちらからは先に進めなかったと考えられる。
最終氷期(ウルム氷期)に入り、サハラ砂漠は拡大していた。エチオピア付近に残された緑地帯(海岸沿い?)から追い出されるように現生人類は出発した。紅海をわたり、海沿いにアラビア半島を北上した。当時はアラビア半島、中東、イラン、中央アジアまで巨大な連続した砂漠と思われる。さらに砂漠は北東アジアでツンドラ砂漠までつながっていた。現生人類はこの砂漠のふちを回る経路を通った。
スマトラ島のトバ火山が74000年前に大噴火した。地球の気候を一時的に低温化した。寒冷化が現生人類の移住を加速させたのではないか。特に、インド大陸は厚い火山灰で覆われ、もし現生人類が到着していたならほぼ絶滅したはずである。そのほかの大陸の現生人類への影響は不明。
寄生して血を吸うシラミには頭髪にいるアタマジラミと、着衣などにいるコロモジラミの二つの亜種がある。アタマジラミからコロモジラミが分岐したと考えられているが、それは服を着るようになってからである。両者の遺伝子を比較した結果、分岐は約72000年前と計算された。
アラビア海を回って比較的緑化していたインドに約66000年前に到着した。現生人類はインドから2手に分かれた。一つは中央アジアに進出して、シベリア方面からアメリカ大陸へ。寒冷化に適応した人種であった。中央アジアから西へ向かったグループはヨーロッパまで進出した。この進出はネアンデルタール人との戦いであったと考えられる。
もう一方のルートは東南アジアへと進出した。氷期ではあったが、赤道付近の水平移動であったため、進出にはそれほど時間がかからなかった。ウルム氷期には、海面が低下して、スマトラ、ジャワ、カリマンタン(ボルネオ)島がマレー半島とつながり、周囲の広大な大陸棚も陸化して、スンダ大陸があった。スンダ大陸は狭い海峡を隔てて、オーストラリアとパプア島及びその周辺大陸棚が一体化したサフル大陸に隣接していた。海沿いの自然環境の似た地域をたどって拡大した。一度確立した海辺での狩猟採取技術を応用して急速に広がった可能性が高い。
オーストラリアには約63000年前にたどりついた。現生人類がオーストラリアに上陸したときはそれほど海水準が低くなかったので、現生人類は船でオーストラリア大陸(サフル大陸)に渡ったはずである。すなわち、南アジアを東に移動している間に船を発明した現生人類のグループがあった。
そのクループはさらに、海流を利用し、スンダ大陸から北へ進出した。中国の南シナ海沿岸から弧状列島を辿って北上すると、日本にたどり着く。日本人の祖先は約6万年前のフロンティア精神に満ちた冒険家たちであったはずである。
5-2万年前: 8.5万年前にアフリカを出た人類の肌は黒かったが、2万年前までに色が淡くなった集団が出現した。氷期であったが、人類は高緯度地域まで棲息地域を拡大した。
人種の名称は「オイド」という語尾をつける。二グロイド(アフリカ人)、コーカソイド(西欧白人、インド人)、モンゴロイド(インド以東のアジア、ポリネシア)、オーストライド(オーストラリア、ニューギニア)、アメリンド(アメリカインディアン)である。形態学的特徴に基づいた分類であるが、50000万年前までは人種はニグロイドだけであった。
前頭葉の発達に関与するマイクロセファリン遺伝子(MCPH1)の変異が3.7万年前(1.4-6万年前)に優勢になった。おそらく、その後の現生人類の文化(言語形成?)に影響したであろう。サハラ砂漠の南の現生人類以外にこの変異があることから、出アフリカからインドにいたるどこかで変異が起こったと考えられる。
インドからインダス川沿いに中央アジアに進出した現生人類の一派は西へ向かい、5万年前にブルガリア近辺に進出した。ミトコンドリア遺伝子の解析から、そのあと、1.5万年前までに何度か集団として進出が推定される。現代のヨーロッパ人はこの頃移住した民の子孫と考えられる。ヨーロッパへ移住した集団はコーカソイドとしての体の特徴を発達させた。
中央アジアからシベリアを経由して北太平洋へ出たグループがある。ミトコンドリアDNAを解析すると、アメリカ先住民の祖先はシベリアに暮らしていた人々であり、寒冷化に適応したミトコンドリアの変異を持っている。
インドからベンガル湾を回ったアジア人はスンダ大陸に定着した。オーストラリア大陸(サフル大陸)への移住はあまり行われなかったらしい。スンダ大陸から北上したグループがある。先ずは中国沿岸やフィリピンなどの弧状列島沿いに北上した。さらに、海岸沿いからメコン川、揚子江、黄河などの大河の流域に沿って内陸部へと移住した。これらの大河はチベット高原から流れているので、チベット高原には早くから人類がいた。弧状列島沿いにアラスカまで移動できたと考えられるが証拠は無い。
スンダ大陸から北へ向かった集団はモンゴロイドとして人種を形成した。モンゴロイドの体の特徴はネオテニー様である。肌の色が淡くなったのは北へ進出した一団ではないか。黄色の肌のモンゴロイドは最終氷期に南下し、混交したと考えられる。アジア人の皮膚色を淡くした遺伝子はまだ見つかっていない。
この頃の文化は後期旧石器時代として区切られる。主に採集・狩猟生活を行っていたが、2.3万年前には穀物の種を収集していた形跡がある。遺跡が見つかることから、半定住生活であったと考えられる。
人類が居住範囲を拡大するとともに、大型の草食哺乳類も絶滅した。特に、アメリカ大陸、オーストラリア大陸で著しく、化石で発見される種類と比べると80%ほどが絶滅している。南アジアとサハラ以南のアフリカに残るゾウは、仲間のマンモスやマストドンの悲劇を免れ生き残っている。アフリカでは象をはじめ、草原の大型草食動物が生き残っていることから、集団で狩を行ったのはアジアに進出した集団と考えられる。とくに、狩猟技術が発達した段階で進出したオーストラリア、アメリカ大陸の集団は効率的に狩を行ったのではないか。
現生人類の世代交代を考えると、5万年で約2000世代である。この数字が遺伝子の淘汰を考える上での基礎である。他の哺乳類と比べると10分の1程度である。
2-1万5000年前: 地球は大氷結時代に入った。北まで進出した人類は寒冷化と乾燥化により、南の海岸平野に押し戻された。おそらく、集団の間で闘争がおこり、遺伝的に、また、文化的に交雑した。
ウルム氷期で、最も寒冷だったは約18000年前である。現代に比べて平均気温で6℃ほど低い。氷床は最も南下して北緯50度以北の陸地(カナダ、スカンジナビア半島、シベリア)は氷床に覆われ、グリーンランドと北米は氷床で繋がっていた。シベリアには北極海へ流れる大河があるが、氷床により堰き止められ、巨大な湖が出現した。ヨーロッパはイギリス、バルト海まで氷河に覆われていた。
氷床の体積は現在の南極およびグリーンランドにある氷床の3倍と見積もられている。水が氷として陸上にあった分、海面が低下した。氷河が最大であったときは現在の海水面より130m低かったと推定される。
内陸部は乾燥した。北緯30°から南緯30°の間の陸地のうち、砂丘帯の面積は現在は、約10%、18000年前は50%に達し、特に、北緯、南緯20°付近を中心とする二つの大きな帯状の分布をみせ、北アフリカ、南アフリカ、オーストラリアで砂丘帯が発達した。このため、アフリカに残った人類は南北と赤道付近で3つに分断され、遺伝的な違いが大きくなった可能性がある。
大陸棚は氷期に海岸平野であったと考えられる。大陸棚の平均水深はほぼ130mで、幅は平均78kmになる。海の面積の10%あまりに達する。この土地が氷床と引換えに祖先に与えられた。大陸棚の分布から、18000年前の人類の分布を推測できる。
まず、ペルシャ湾。チグリス・ユーフラテスの大河は1本となり、ペルシャ湾の谷を潤したであろう。インドのボンベイ沖やベンガル湾の奥はかなり大きな平野を提供した。中央アジアの人類はここに集合した。
東南アジアを中心とするスンダ大陸とサフル大陸、大きな大陸棚のある東アジアには中国内陸部から人類が南下した。気候からしても、たくさんの島々が分布したことからも、ここは人類が大きく発展した場所であろう。サフル大陸はソロモン諸島(一つの島であった)と陸続きであったか、船でいけた距離であったろう。
スンダ大陸から北に向かって、フィリピンから台湾を経て陸地となり、南シナ海は内海か湖になった可能性がある。東シナ海は陸地となり、黄河と揚子江が潤していた。両大河は1本に合流していただろうか。河口は沖縄あたりになる。人類が居住できたのは北海道以南ではないか。
サハリンはシベリアと陸続きであり、千島列島はオホーツク海を太平洋から分断し、また、アリューシャン列島はベーリング陸橋とともに、ベーリング海を囲んでいた。この地域をベーリンジアとよぶ。ベーリンジアは水没した大陸の中では3番目に広い。
紅海、地中海は内海となった。地中海はイタリア半島で2つに分断され、エーゲ海は島や内海が入り組んだ平原となった。ヨーロッパの人類は地中海沿岸へ南下した。イギリス周辺は広大な平野となり、バルト海は幅広い谷となった。しかし、ヨーロッパの平原は緯度が高く、寒冷であった。シベリアの湖からあふれた水は川となってカスピ海から黒海へと流れ、また、一方でバルト海へと注いだ。
メキシコ湾やカリブ海は内海になったが、人類は、まだ、到達していなかったであろう。
15000-10000年前: 地球が温暖化し、氷河が融けた。特に巨大な氷河湖の決壊は海水面を一気に上昇させたので、人類は海岸平野から内陸へ大移動した。
定住は1-2万年前に証拠が見つかるので、農業より古い。おそらく、水没した地域で農業が始まり、定住の遺跡はその地域と交易していた人々の村であろう。14,000年前は温暖期であり、人類は森で定住生活を開始した。日本では縄文土器が作られた(佐世保市瀬戸越町泉福寺洞窟で発見された豆粒文土器(12000年前))。ヨーロッパでは約5万年前から芸術の痕跡が発見されているが、特にこの頃、精巧な洞窟絵画(ラスコーは15000年前、アルタミラは18000-10000年前)が描かれた。
氷河の融解は徐々に進行したが、大陸が北極海に向けて傾斜していたために水は氷河にせき止められて巨大な湖を作り、それが決壊して海洋性洪水を引き起こすというステップを踏んだ。海洋性洪水は3回起こった(1回目はおよそ14000年前、2回目はおよそ12000年前、3回目は8000年前)と推定される。1回の海洋性洪水により10mほどの海面上昇が急激に起こり、海岸平野を襲った。一度に10mもの海面上昇は、海辺に展開していた文明を破壊するのに十分であった。
そのうち、有名なのは12000年前のヤンガードリアス期である。シベリアの湖が北極海に達し、また、北アメリカの湖が流れ出して、北大西洋から北極海は大幅に淡水化した。北大西洋から潜り込んでいた深層水大循環が停止し、大西洋を北上していた暖かいメキシコ湾流が停止した。そのため、北アメリカからヨーロッパを中心に一時的な寒冷期に見舞われることになった。この寒冷期は中東、メソポタミア地方で農業を発達させた。
東地中海の海岸平野に住んでいた人々はナイル川を遡ってエジプト文明の基礎を築いた。もしくはエーゲ海、黒海方面へと移動した。ペルシャ湾の海岸平野にに住んでいた人々はチグリス、ユーフラテス川を遡ってイラクへ移住した。メソポタミア文明を築いた。中東では約12000年前から小麦の栽培が始まったという。ナトゥフ文化は1.5-1.1万年前に中東の地中海沿岸に定住していた人々による。穀物を採集して食し、死人を埋葬していた。
インド大陸の西の海岸平野に住んでいた人々はインダス川を遡ってインダス文明を築いた。スンダ大陸に住んでいた人々は、海面上昇とともに四散した。東はポリネシアへ、北は中国と日本、朝鮮である。東シナ海の海岸平野に住んでいた人々は揚子江、黄河沿いに北上した。初めて穀物(米)の栽培がなされたのは約15000年前の長江文明とされている。
シベリアへ移住した一族は大氷結時代を日本の北海道周辺の海岸平野で過ごした。彼ら寒冷な気候に適応したモンゴロイドは海水面の上昇に伴って、ベーリング陸橋をわたってアメリカ大陸へと移動した。ベーリング陸橋は1.4万年前から1.1万年前まで通行可能であった。ベーリング海峡が陸地化したときは黒潮がほぼ水平方向に北米大陸に向かって流れたはずである。
江戸時代に太平洋で嵐にあった日本の漁師たちはアリューシャン列島まで流された記録がある。それでも何とか生存できた。さらに、アリューシャン列島から北米へと移動した人たちもいたのではないか。
アメリカ大陸での最初の文化は11500年前頃に特徴的な石器で槍を作るクロヴィス文化である。北米中西部で最初に出現すると、瞬く間に北米大陸全域に拡散し、さらにその亜流はたった1000年間で南米最南端のティエラ・デル・フエゴまで拡大した。
グリーンバーグ博士の提案したユーラシア大語族の起源は1.5万年前に遡る。その大きな枝である印欧語族は8000年前に成立したとされる。
厚い氷河は重く、地殻を押し下げていたので、スカンジナビア半島やカナダはいまだに隆起している。
10000-6000年前: 地球はヒプシサーマル期を迎え、現代より温暖化した気候となった。人類は農業を発展させ、農業技術は世界中で発見されて、各地に伝播した。突然変異で白人が出現した。
農業は1万年前に肥沃な三角地帯でスタートしたとされるが、世界各地でほぼ同時期に発生した。農業が独立に開始された地域は世界で10箇所と推定される。中国では8000年前に稲作農業がスタートした。田んぼの遺跡があり、水を引いて灌漑していた。アメリカ大陸でもカボチャが栽培されたのは10000年前、とうもろこしは9000-8000年前、ピーナッツは8500年前。ニューギニアでは7000年前からバナナやタロイモ、ヤム芋農業がスタートした。
花を咲かせ、種子をつくる被子植物は20万種あるが、食用になるのが数千種。その中で、栽培が経済的に可能なものが数百種。現在、世界で1年間に消費される農作物の80%は、わずか十数種類の穀類・豆類・根菜類・野菜・果物である。その主要な植物は何千年も前から栽培されている。哺乳類で家畜化されているのは、主要なものではたった5種。羊、山羊、牛、豚、馬だけ。ラクダ、ロバ、アルパカや水牛などもあるが、飼育できる環境が限定され、人間が食用とし、あるいは生産活動に利用している地域が限られている。
ほぼ同時期に家畜の飼養を専門に行う牧畜が発生したと思われる。遊牧民は農業生産に依存する部分が多いためである。遊牧民は交易と畜産物の供給を生業とし、農業のできない草原地帯へと進出した。従来の狩猟民は山岳地帯や森林の中、農業のできない海岸地方でそれまでどおりの生活を続けた。
印欧語族はトルコのアナトリア高原を起源とし、約9000年前に伝播を始めた。言語の地理的な分布とその地方で農耕がスタートした時期、そして言語の近縁関係の距離が相関する。農耕技術と印欧語族の祖語を伝えた征服者の子孫ではない。技術と言語のみが伝えられた。すぐれた技術を持つ人々が技術と共に言語を伝え、また、学ぶ方も積極的に言語を取り入れた。穀物は長期保存ができるため、富の保存が可能である。穀物を主食とした農耕文化が大きく発展した。
栽培し、観察することで、種がすぐに落ちない穀物種、小麦や大麦が選択された。栽培種の選択は数千年かけてゆっくりと進行した。小麦や大麦の遺伝子を調べると複数の原種があったと想定されている。すなわち、穀物の原種はあちこちで栽培されていて、それが人の移動と共に交け合わされて、より実りの多い品種が開発されたことが分かる。
ヒプシサーマル期には北アフリカからインド、東アジアにかけての地域が湿潤化した。とりわけ今のサハラ砂漠は極端に湿潤化し、その内部に大きく植生が広がっていた。温暖化がピークだった5000-7000年前には世界中で海水面が上昇した。貝塚の分布から関東平野の半分が海に覆われたと考えられる(縄文海進)。地中海から狭いボスフォラス海峡を通じて大量の水が黒海へと流れ、おそらく、黒海沿岸は大洪水に見舞われたであろう。黒海の海底では、紀元前5500年と推定される大量の水が流れた跡、峡谷が発見された。ノアの大洪水、ギルガメッシュ叙事詩の大洪水はこのときの大事件が伝承されたのではないか。また、浅いボスフォラス海峡が気候変動に伴って、何度か陸橋化した可能性もあろう。海を断ち切るというモーゼの奇跡も実際に起こったのかもしれない。同様な事件は世界各地で起きたであろう。
最も古い城壁跡は8000年前のヨルダンのジェリコとされている。日干しレンガを用いた長方形の建物が好まれた。貯蔵施設やパン焼き窯も備えられている。集落防御用もしくは宗教的施設とみる解釈が有力である。近辺には 11000年前の大規模な居住跡もある。ジェリコには古くから人が住み、都市を作る豊かな文化を築いていた。
土器は最初は日干しで、そのあとは熱を加えて強化したものが使われた。古代オリエントでは約7000年前から使われた。土器をつくるには700〜800℃の熱が必要である。この程度の熱は大きい焚き火をつくるか、炉を使えば達成可能であった。
大脳皮質のニューロン数を決定しているASPM遺伝子の変異は6000年前に起こった。ASPM遺伝子は劣性の突然変異で小脳症となる遺伝病の原因遺伝子として同定された。ASPMの変異は文字もしくは都市形成の時期と一致するので都市化能力の遺伝子的な原因だろうか。 欧米人の目が青い(金髪、白い肌)は6000-10000年前のHERC遺伝子の変異に由来する。遺伝子の解析から黒海のほとりからヨーロッパへと青い目の遺伝子をもつ集団が移住したと考えられた。HERC遺伝子は近傍のOCA2遺伝子(黒色色素細胞で発現。メラニンの生合成か細胞内輸送に関与しているらしい)を制御する。ヨーロッパ人の中で青い目が広がったのは性選択によるものであろうか。
ほとんどのアフリカ人とアジア人はSLC24A5という皮膚色にかかわっている遺伝子の古い型(111A)を持っている。新しい型の遺伝子(111T)は1アミノ酸が異なっており、コーカサス人の99%がもつ。この変化は5000年から12000年前にコーカサス人の中で優勢になったと推定される。
6000-5000年前: ヒプシサーマル期が終わり、大陸内部が乾燥化した。遊牧民族が大河の周りに集中し、農業文化と遊牧文化が融合した。農耕・牧畜の発達によって人々の生活は安定し余裕が出た。人口はかつてないほど増えて、集落は大村落へと発展し、都市国家が出現した。
メソポタミアはチグリス・ユーフラテス河の下流に位置し、当時ではきわめて農業に適した地域であった。最古の遺跡はシュメール人のもので、6200年前には治水・灌漑による農業をはじめ、最初の村が成立した。 5500年前にはいくつかの都市国家が成立した。ほぼ同じ頃、青銅器が用いられるようになり、また楔形文字と呼ばれる文字が使用され始めた。シュメール人の都市国家は相互に農地をめぐって争った。その一つにエデンの地がある。この頃の遊牧民族は大きな力を持ち、農耕民族、森の民族を駆逐したらしい。
ナイル川の下流も肥沃な土地であったが、毎年の洪水にそなえるための治水事業がエジプトの歴史をつくった。比較的孤立した地域であったため、王国の発展が世界に先駆けて起こった。膨大な労働力と大規模な共同作業を必要としたので、彼らを統率する強い指導者のもとで、6000年頃までには上下エジプトにそれぞれ22、20のノモス(小部族国家、都市国家)が成立し、やがて上流の上エジプトと下流の下エジプトの二つにまとまった。そして、5000年前、メネス王(エジプトの伝説的な、最初のファラオ)によって統一され、第1王朝が開かれた。
中国最古の城壁は城頭山遺跡である。6400〜6200年前に構築された直径360メートルにおよぶ円形の城壁に囲まれ、北・東・南に城門を持つ都市である。祭壇や稲作の豊穣を願う儀礼が行われた。長江文明は稲作漁労文明であり、畑作牧畜型のいわゆる四大文明とは異質の古代文明であった。エジプトのピラミッド。巨大モニュメントは寒冷期に作られた。
農耕なしで定住を達成した文化もある。その典型的な例は日本の縄文文化で、採集・狩猟・漁撈により定住できるシステムを作り出した。地域の自然環境とそれぞれの文化伝統により多彩な文化・社会の在り方が出現した。日本の三内丸山遺跡は6000年前から村が作られた。
5000-4000年前: 農業が盛んになると文明は飛躍的に発展した。火の需要が増え、平野の森を切り開き、農地に変えるという環境破壊が始まった。都市建設のためのレンガ作り、土器の作製、金属の精錬、そして人口の増加。森林からは木々が切り倒され、次々と火力として用いられた。
メソポタミアの中流域に、もと遊牧民であったセム系のアッカド人が住みはじめ、シュメール人の文化を学びつつ強力となった。アッカド人は南部のシュメール人の地域を征服し、4200年前にアッカド王朝を創始した。王サルゴンがシュメール人を征服できたのは常備軍を編成していたことと、弓矢を主兵器とする軽快な機動力にあったとされる。しかしアッカド王朝は200年で衰え、混乱のなかで、シュメール人がふたたび勢力を回復し、ウル第三王朝が成立した。この王朝の開祖であるウル・ナンム王は、ハンムラビ法典に先立つ世界最古の法典(ウル・ナンム法典)の発布者として知られる。
ナイル川流域にはエジプト文明が成立した。エジプトはナイル川流域が砂漠や山岳地で囲まれていたため、外部勢力の侵略を受けず、エジプト内で統一国家の形成が進んだ。古王国時代(5000-4100年前)は、巨大なピラミッドが建設された。カイロ郊外にある第4王朝のクフ王のピラミッド(最大のピラミッド)、カフラー、メンカウラーの三大ピラミッドとスフィンクスは特に有名である。
地中海東部のエーゲ海にはクレタ文明が成立した。先進地域であるエジプトやアナトリア(トルコ)、シリアやレバノンなどから、海を渡ってやってきた人々がクレタ島を中心に活動した。約4600年前に青銅器時代が始まり、麦やオリーブなどの農業が行なわれ、羊ややぎなどの牧畜が行なわれた。また、海上貿易が発達し、世界最古の通商航海民とみなされている。
インダス河流域には計画都市であるモヘンジョ=ダロ、ハラッパーなどの遺跡が残されている。4500〜3800年前に建設された。インダス文明は、青銅器文明であり、潅漑農耕と牧畜が主な生産手段であった。インダス文字や印鑑が残されている。メソポタミア地方と交易もおこなっていた。完成度の高い文明が突然出現したように見えるので、メソポタミアの国家のひとつが交易または植民地支配のために作った貿易中継都市という説もある。
この時代の中国の状況については現在整理が進行中である。黄河文明とされた仰韶(ヤンシャオ)・竜山(ロンシャン)文化では農耕や狩猟を中心として村落が形成された。仰韶文化では彩色された土器が、竜山文化では高温で焼かれた黒い土器が特徴とされている。稲作が中心であった長江文明の最盛期として、屈家嶺(くつかりょう)文化、良渚(りょうしょ)文化が挙げられる。玉器の多量な出土があり、黄河文明との交流も見られた。時代が確定していないが、四川省の三星堆(さんせいたい)遺跡はこの頃に成立し、独自の文化を持っていた。
日本は縄文時代中期で、東北地方、北海道南部で大規模集落が形成されていた。
4000-3500年前: 各地で王国が組織され、都市文明を築いた。文字は古代バビロニア、エジプト、中国、マヤ文明で発明された。文字を使うことにより、社会は記録され、組織され、権威付けされて王国の基礎となった。
クレタ島では、約4000年前にクノッソス、約3700年前以降にはファイストス、マリア、ザクロに大きな宮殿が建てられて、宮殿を中心に都市が発達した。宮殿には城壁がなく、明るく平和的な海洋文明であったらしい。すでに文字を持っており、初期の絵文字から、線文字へと進歩し、粘土板に宮殿の会計などを記録するようになっていた。
ナイル川の中流域のテーベの豪族が勢力を伸ばし、全エジプトを統一し、テーベを都として中王国時代(4100-3600年前)がスタートした。3600年前、セム系遊牧民を中心とするヒクソスがシリア方面から侵入し、馬と戦車でエジプト人を圧倒し、中王国を征服した。以後約100年間にわたりエジプト人は初めて外国人の支配下におかれることとなった。
シュメール、アッカドのあと、メソポタミアを支配したのはセム系のアムル人であった。約3900年前にバビロンを都として古バビロニア王国を建設した。第6代の王ハンムラビ王は30年に及ぶ征服戦争によってメソポタミア地方を統一し、中央集権国家を建設した。それまでの法律の集大成であるハンムラビ法典を制定した。古バビロニア王国は西アジアでの思想・文明の中心地となった。バビロニア語やその楔形文字は西アジアの外交語となり、占星術、暦、建築技術、重量単位などはギリシアにまで影響を与えた。古バビロニア王国もハンムラビ王の死後、衰退し、3530年前、ヒッタイトによって滅ぼされた。
古バビロニア王国の繁栄は周囲の諸民族を刺激した。富を狙ってメソポタミアに進出。また、イランや小アジアの遊牧民、中央アジア、南ロシアのインド=ヨーロッパ系の遊牧民が大移動をおこした。
中でもアーリア人は4000年前から3500年前にかけて、古代アフガニスタンに移住。アーリア人は二手に分かれ、一方がパンジャビ(インダス流域)に移住。もう一方はイランに移住。メソポタミア周辺。イランに一部が移住。イラン・アーリア人となる。アーリア人の存在については疑問もある。
約3500年前には漢民族が中国北部に到着し、土着の揚子江流域の民族を圧迫した。もともとスンダ大陸に住んでいた人々である。漢民族は商王朝を建国した。揚子江流域の民族は日本、東南アジア、ポリネシアへと広がった。これがアルタイ語族の人々である。日本と朝鮮はこの語族に属する。南インドのタミル地方にも日本語と同じ言語があるが、はるかな過去にスンダ人が移住したのであろう。揚子江民族が水稲耕作の技術を日本に持って来て、弥生文化の基礎を作ったと思われる。古事記、日本書紀の神武天皇の神話はこの移住を思わせる。
3500-3000年前:中央アジアの遊牧民族が各地へ移動した。遊牧民族の文字で残された最初の進出である。エジプトやバビロニアなどの古代国家の周辺に居住していた民族が影響を受けて文明化し、活動した。
3500年前から数百年にわたってドーリア人、アカイア人がバルカン半島に南下した。ミケーネ、クレタ文明を滅ぼしてギリシア人となった。都市国家であるポリスを建設した。
エジプトはヒクソスを追い出した。3500年前には軍国主義を強化し、海外遠征を行うなど、最も繁栄した時代を迎えた。強大なヒッタイト王国とカデシュの戦いで激突したが、のちに婚姻関係を結ぶなど、共栄姿勢をとる。 3000年前から徐々に衰退し、アッシリア、ペルシャの侵入を受けた。
フェニキア人は3500年前から都市国家を形成した。3200年前から造船・航海技術を発達させて、海上交易を行い、北アフリカからイベリア半島まで進出した。古代オリエントで生まれたアルファベットなどの優れた文明を地中海全域に伝え、古代ギリシア・古代ローマの発展を促した。
ヘブライ人は4000年ほど前にメソポタミア近辺から現在のイスラエルに移住した人々を祖先とする。一部の集団がエジプトへ移住した(飢饉?ヒッタイトの傭兵?エジプトの侵略?)が、新王国の下、奴隷として扱われた。約3200年前、モーゼに率いられてエジプトから脱出した一団はユダヤ教を成立させ、後のユダヤ民族のバックボーンを生み出した。王国を築いてソロモン王のときに繁栄した。
メソポタミアは中央アジアから遊牧民族が侵入し、ヒッタイト、ミタンニ、カッシートなど多くの王国が並立し、拮抗状態にあった。この間、60進法などの算術、占星術や暦の成立、法律などの実用的な学問が進展した。
インダス川上流域から現在のボンベイに渡る平野で栄えていたと思われるインダス文明は約3800年前に滅亡した。その後、3500年前より、アーリア人が同地域に徐々に氏族単位で移動してきた。アーリア人は鉄を使う技術を持っていたため、肌の色の濃いドラヴィダ人を支配。宗教的な思想に基づくカースト制度(階級制度)を作り出し、自分達は支配階級であるバラモンやクシャトリアの地位に付いた。
中国では商の湯王が3600年前に王朝を開いた。史記では殷と呼ばれる。商の政治の特徴は神権政治で、甲骨文字を用いて政治・軍事・農業など国事をすべて占卜によって決めた。甲骨文字は漢字の原型である。氏族単位で生産活動を行い、先祖崇拝が宗教の根本と考えられた。奇怪なデザインの大型の青銅器がたくさん発見されており、青銅器を作製する高度な技術を持っていた。3000年前に周の武王が紂王を倒し、商王朝は滅亡した。
3000-2500年前(BC1000-500年): 各地で様々な統治方式が試された時代。王や政治家の個性的な考え方が記録され、体系的な思想が誕生した。
東ヨーロッパにいたケルト人(ローマ人はガリア人と呼んでいた)はライン・エルベ・ドナウ川上流域から、次第に勢力を増して、原住民を追い払い、2700年前にはほぼ全ヨーロッパに進出した。ケルト人はヨーロッパ初の鉄器文化の担い手であった。ピレネー山脈に住むバスク民族はケルト人に圧迫された民族の一つであろう。
同じ2700年前、ローマが建国された。2500年前にはアテネの影響を受け、共和制へ移行した。
3000年前からギリシャの各ポリスが発展した。アテネは奴隷制に基礎を置いてはいるが、共和制を発明した。民主的な政治はイオニア自然哲学(タレス:万物の起源は水である、ヘラクレイトス:万物は流転する、ピタゴラス:万物は数である、デモクリトス:万物はアトム(原子)からなる)を生み、アテネではソフィスト(ソクラテスなど)が活躍した。2500年前、勢力を伸ばしてきたアケメネス朝ペルシアと衝突。アテネを中心としたデロス同盟により危機を回避したギリシャは全盛期を迎えた。
豊かな流域であるエジプトやメソポタミアでは周辺の民族が繰り返し侵入し、王国を建てた。やがて、2700年前、アッシリアがエジプト、シリア、メソポタミアを支配し、オリエントを統一した。大国を運営したアッシリアは騎兵隊を中心とする強力な軍隊を持ち、街道を整備・維持した。アッシリアは軍事的に打ち破った多くの民族を強制移住させたり、重税を課して支配した。ユダヤ民族もその一つで、旧約聖書ではアッシリアは血を好む民族として描かれている。約140年の支配の後、アッシリアは各国の独立闘争により衰退した。
新バビロニアは独立を回復した国の一つで、2人のネブガドネザル王の治世が有名である。バビロン捕囚をおこない、ユダヤ人を奴隷に落としたため、聖書では首都バビロンは邪教の都市、堕落した都市として評判が悪い。壮麗なジグラッドを築き、空中庭園を造営したという。ジグラッドはバベルの塔のモデルとされている。 アケメネス朝ペルシアは次に勢力を伸ばした帝国である。2500 年前、ダイレイオス1世のときにギリシャ北部からトルコ、エジプト、中東、メソポタミア、イランに及ぶ大帝国を築いた。メディア王国の一部族から出発して、わずか50年での偉業である。アッシリアは専制的な政治を行ったが、ダレイオス1世は帝国内の諸民族の宗教や文化に対して寛容であった。
3000年前のインドでは製鉄技術を身に付けたアーリア人がガンジス川に沿って東へ進出した。農業生産が高まり、商工業も発展し、村落は都市へ、都市国家へと発展した。原住民(ドラヴィダ人など)との混血が進み、身分階級の分化が進展し、カースト制度が誕生した。カースト制の思想の根拠となるバラモン教はヴェーダを聖典とし、宗教的な形式が整えられた。社会が発展すると、現実的な政治・軍事力を持つクシャトリヤや経済力を持つヴァイシャの力が強まった。バラモンの横暴に苦しんでいたクシャトリヤやヴァイシャは、新しい時代に適応する新しい考えを求めた。森にこもって修行や内面的な思索を行う宗教家が出現し、最古の哲学ともいうべきウパニシャッドが誕生した。ウパニシャッド哲学を基礎にジャイナ教と仏教が成立した。
3000年前に成立した周王朝では王(本家)を中心に血族に領土が割り与えられ、氏族的封建制度で政治が運営された。周王室の勢力が衰えると、実力のある諸侯が互いに争う春秋時代となった。春秋時代には製鉄技術が普及し、生産力も増加した。諸侯は各国の富国強兵をはかり、有能な人材を求めた。実力主義の風潮の中で、多くの思想家・学派が現れ、多くの書物が書かれた。これらを総称して「諸子百家」と呼ぶ。2500年前には戦国時代へと次第に移り変わった。
2500-2000年前(BC500-0年): ユーラシア大陸の西と東に大帝国が誕生した。
アケメネス朝ペルシアがオリエントを統一したのは2500年前である。その西の端はギリシャ半島に達したが、ギリシャのポリスはアテネを中心にデロス同盟を結成し、ペルシアに対抗した。サラミスの海戦で大艦隊を撃破されたペルシアは撤退を余儀なくされ、ギリシャ方面への進出を棚上げにした。ギリシャ諸ポリスはアテネを中心として繁栄した。共和制を確立したアテネではソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表されるギリシア哲学が成立した。一方で、全体主義的な体制であったスパルタと対立した。両者の対立はペロポネソス戦争へと発展し、ギリシャ社会の衰退を招いた。
ペルシャ帝国に占領されていたマケドニアにフィリッポス2世が立ち、騎兵に重装歩兵を加えた戦法で強力な軍隊を作り、BC336年に内紛と抗争で衰退期にあったギリシャを征服した。フィリッポス2世は暗殺されたが、その後を継いだアレクサンドロスは当時の世界の中心だったアケメネス朝ペルシアを撃破し、インダス川まで遠征を行った。アレクサンドロスは旧アケメネス朝ペルシアの領土を得たが、早世してしまった。アレクサンドロスの家臣が独立し、ヘレニズム諸国が成立した。エジプトのプトレマイオス朝のアレクサンドリアを中心にヘレニズム文化が花開いた。
一方、イタリア半島の1都市に過ぎなかったローマが元老院制と法を持った政治組織を確立し、イタリア半島を統一した。BC146年に地中海のもう一つの覇者であったカルタゴを滅ぼしたローマは100年余りで地中海沿岸を統一し、ヘレニズム諸国を領土とした。ローマはイタリア半島以外を属州として、徹底的に搾取する政治支配を行った。
2500年前のインドでは小国家が勃興し、コーサラ、マガタ国が 2強であった。アレクサンドロス大王のインド侵入は統一の機運を生み出し、インドに統一国家を出現させることとなった。チャンドラグプタはカーストの卑賤な階級から身を起こし、ナンダ朝の武将となった。アレクサンドロス軍の西北インド侵入の混乱に乗じて、ナンダ朝を滅ぼし、マウリヤ朝を樹立した。チャンドラグプタはガンジス川流域からアフガニスタン、インド半島の南へも勢力を拡大し、インド最初の統一国家を建設した。マウリヤ朝の全盛期を現出したのが第3 代アショーカ王である。彼は熱心な信奉者となり仏教を保護奨励した。マウリヤ朝は、アショーカの死後急速に衰退し、インドは小勢力の国家が興亡を繰り返した。
中国では鉄製の道具の普及を背景に経済発展が著しく、各国が実力を蓄えて互いに争う戦国時代に入った。戦国の七雄とよばれる諸国が争ったが、そのうち西の辺境に位置していた秦が強力となり、BC221年に他の国々を滅ぼして中国を統一した。統一王朝の秦王は政である。13歳で王となり、21歳で親政を始め、38歳のときに統一を達成した。自ら「皇帝」(始皇帝)と称した。
始皇帝はそれまでの血縁による支配をやめ、地方官を派遣して統治する中央集権制とした。国ごとに違っていた度量衡、貨幣、文字を統一するなど、革命的な大事業を行ったが、その強引なやり方に反発が高まり、死後、国内が乱れ、BC202年に劉邦(漢の高祖)が再統一を成し遂げた。漢では血なまぐさい勢力争いの後に景帝、武帝が立ち、全盛期を迎えた。
中国北部には強力な騎馬軍隊を持つ匈奴がいた。始皇帝は万里の長城を築いて対抗し、高祖も遠征で殺されかかった。景帝、武帝のときに匈奴を攻撃してその力を弱めた。のち、BC36年に匈奴の分裂に付け込んで西に追い払った。漢の匈奴に対する軍事行動で当時の中央アジアの国々の情報がもたらされ、記録されている。漢は匈奴を追い払った元帝の生母の一族、王氏が権力を得、AD8年に王莽が帝を廃し、皇帝になった。
AD 0〜500年:経典、聖典の編纂事業が行われた。
ローマ帝国は全盛期を迎えた。最大の版図は、北はイングランド、ライン川、ボルガ川まで、南はサハラ砂漠以北の地中海沿岸まで、東はイラクをパルティア、ササン朝ペルシアと争った。しかし、領土の保全のための派兵、権力争いを通じて、元老院制は崩れ、権力が皇帝へと中央集権的な政治へ移行した。専制君主制に移行した後、皇帝が領土を子に分割すると、395年にローマ帝国は東西へ分裂した。
漢と戦って敗れ、西方に逃れた匈奴はフン族としてヨーロッパに登場した。375年にドン川を越えて黒海北岸に居住していた東ゴート族を征服し、西ゴート族を圧迫した。当時、ローマ帝国のヨーロッパ辺境には未開部族のゲルマン民族が住んでいた。ゲルマン民族は血族中心の統治方法を行い、略奪式農業と狩猟を産業の中心とした。フン族の圧迫とローマ帝国の混乱に乗じてゲルマン諸部族はローマ帝国に進入した。特に文化程度の低い西ローマ帝国領土は、オケアドルによって西ローマ帝国が滅びた後、ゲルマン部族によって西ゴート王国、ヴァンダル王国、ブルグント王国、アングロ=サクソン7王国、フランク王国、東ゴート王国に分割された。現在のヨーロッパの原型である。
インドではマウリア朝が倒れた混乱期を経て、イランからの侵略者であるクシャーナ朝が成立した。カニシカ王(130-170年頃)の保護で仏教が繁栄し、ガンダーラ美術を生み出した。クシャーナ朝はササン朝ペルシアとの争いで衰退し、代わってグプタ朝(320-550年頃)が成立した。グプタ朝では仏教は衰退した。
中国では光武帝が王莽を倒し、漢が再興した(25年)。次の明帝の時に領土が最大になり、盛んに外交も行われた。そのあとは外戚や宦官の専横による幼帝が9代続き、漢は立ち直ることなく、黄巾の乱(184年)を契機に各地の実力者が争い、三国時代になった。劉備、関羽、張飛が活躍する三国志で有名。最大勢力である魏(曹操)に対して、呉(孫権)と蜀(劉備)が連合して対抗したが、仲間割れにより劉備が死ぬ(223年)。蜀の実権を継いだ諸葛亮孔明(181-234年)は魏に対して出兵したが、司馬懿がよく防いだ。司馬氏は権力を握り、蜀、呉を滅ぼして西晋を樹立した。中華の混乱の間、実力を蓄えた周辺民族(五胡:匈奴・鮮卑・羯・?「てい」・羌)は華北に侵入し、 316年、匈奴の前趙を皮切りに、約100年の間、13国が勃興した。最後は鮮卑の北魏(386〜534年)の時代が繁栄した。華南では漢民族の3国家が交替に成立した。統一王朝が成立しなかったのは地方の豪族の力が強かったためである。
中央アメリカではテオティワカン文明(BC250年〜AD400 年)、マヤ文明(250年〜900年)が成立した。テオティワカン遺跡は、月のピラミッド、そこから東西にのびた死者の通り、通り沿いにある太陽のピラミッド、通りの付き当たりのケツァルコアトル神殿が基本である。マヤ文明は、コパン遺跡中心部のアクロポリス神殿群が有名であるが、長期暦と石に刻まれたマヤ文字碑文が残され、中・南部低地を中心として数多くの都市が繁栄した。
アメリカ大陸の文明は旧大陸のいわゆる四大文明とは異なり、大河のない熱帯雨林を中心に数多くの都市が栄えた。また、青銅器や鉄器など金属器を持たない新石器時代の都市文明であった。牛や馬などの家畜を持たず、車輪の原理も実用化されなかった。そのためか、地域全体を統一する王朝が生まれなかった。
AD 0〜500年の間に大きな宗教書が編纂された。ササン朝ペルシアの国教となったゾロアスター教のアベスタが77年。カニシカ王の御世にそれまでの口伝から書物に写された仏典を結集した。新約聖書が成立したのは150年ごろとされている。仏典結集のころ、大乗仏教が提唱され、ナーガルジュナによって原型の完成を見た。
AD 500-1000年:国家を形成する地域が拡大した。
イギリスでは、ローマ帝国が撤退した後、アングロ・サクソン人からなるゲルマン人の7国とケルト人の国とが争っていたが、829年にエセックスがイングランドを統一した。その後、バイキングの進入を受けた。 西ヨーロッパ中央部ではいくつかのゲルマン諸国とビザンツ帝国(東ローマ帝国)が争っていたが、フランク王国が力を伸ばし、カール大帝(位768〜814年)のときにドイツ西部からフランス、北イタリアを領土とした。ビザンツ帝国もバルカン半島から南イタリアまで勢力を固めた。フランク王国とビザンツ帝国はローマ教会とギリシャ正教となるコンスタンティノープル教会との対立の軍事的背景になった。フランク王国は834年にカール大帝の孫によって3分裂。西フランク王国(フランス)、東フランク王国(ドイツ)が別れた。
610年、アラビア半島でムハンマドを教祖としてイスラム教が成立した。イスラム教徒はカリフ国を建て、ビザンツ帝国と争っていたササン朝ペルシアを滅ぼした。ムハンマドあと、カリフが選出され、4代まで続いたが、ムアーウィアが4代目カリフであるアリーを暗殺してウマイヤ朝を立てた。イスラム教徒はアリー以外を正当なカリフと認めないシーア派とそれ以外のカリフを認めるスンニ派に分裂した。ウマイア朝は北アフリカのビザンツ帝国の領土を奪って西はイベリア半島、モロッコから東はイランまでを領土とした。ウマイア朝を追ったアッバース朝のときに政治的には最盛期を迎え、多くの民族を従えた帝国となった。ウマイア朝はイベリア半島に首都を置いた。また、シーア派はエジプトを中心としてファーティマ朝を建国した。イスラム文化圏では経済が発達し、ギリシャ、ヘレニズム、インドの遺産を融合した文化が花開いた。
インドではヒンドゥー系諸王国が攻防を繰り返していた。東南アジアでは、中国圏、インド圏の文明国の影響で征服王朝が発展した。この頃の遺跡としてカンボジアのアンコールワット(800年頃)が有名である。
中国では588年、楊堅が隋を建国し、分裂時代に終止符を打った。隋は煬帝の大規模な土木工事や戦争で短命に終わり、唐(618-907年)が建国された。唐は世界帝国へと発展し、西はトルキスタンまで領土とした。分裂時代に帝国を維持運営するための基盤が整った。一つは、まず、行政府の階級制度(九品中正:独立心の強い豪族の政権への組込み)を立て、ついで科挙制(試験による官吏任用制)へ移行した。土地を私有させ、税を取り立てる仕組み(均田制)を確立した。官僚制を皇帝の元での三権分立制である三省・六部(りくぶ)とした。北朝、南朝の分裂による2大文化圏が成立した。
日本、朝鮮で建国運動が活発になり、それぞれに征服王朝が成立した。
800〜1300年は全地球的に温暖な時期であった。ヨーロッパではバイキングが活動し、中央アジアでは北方遊牧民族が次々と南下して王国を建てた。中央アジアでは、まず、テュルク民族が勢力を伸ばし、突厥(とっけつ) を建国し、西はアラム海から東は満州まで及ぶ大帝国を築き、イスラム帝国、唐と対立した。突厥は同系民族のウイグル(744-839年)に滅ぼされた。ついで、キルギス民族が建国。満州では唐が衰退した後、遼(916-1125年)が建国された。
中央アメリカではマヤ文明が最盛期を迎えた。テオティワカンを代表とする多くの都市が築かれた。が、突然、都市が放棄され、820年から889年にかけて各都市が最後を迎える(最後の記念碑の日付)。スペイン・ポルトガル人の入植時に焼却された書物に原因が記されていたかもしれない。マヤ文明の後、トルテカ人が進出した。
1000-1500年:国際社会の誕生
イラン人のブワイフ朝がアッバース朝の首都バクダットを侵略し、 945年、アッバース朝のカリフは形骸化した。1055年、中央アジアのトルコ系遊牧民族セルジューク・トルコがブワイフ朝からバクダットを開放した。アッバース朝カリフはセルジューク・トルコの王トゥグリク・ベグをスルタンとして任命し、専制国家を運営することを認めるようになった。セルジューク・トルコはアナトリアに進出し、ビザンツ帝国を圧迫した。 ゲルマン系民族の住むヨーロッパでは、北はバイキング、南はイスラム、東はマジャール人の侵略を受けていたが、ようやく西ローマ教会を中心として国家集団として機能するようになった。ビザンツ帝国の教皇は西ローマ教会に対してイスラム教徒の侵略に対する援助を求めた。ヨーロッパ諸国はこれを口実に新たな領土を求めて十字軍を結成し、中東地域を侵略した (1096-1270年)。初期はセルジューク朝が分裂状態にあったので十字軍は地中海東海岸を占領した。エルサレムは略奪されて住民が大虐殺され、イスラエル王国が建国された。アイユーブ朝を立てたサラーフ=アッディーンが体制を整え、十字軍を追い出した(1187年)。その後も十字軍の侵略は続いたが、トルコ系でカイロに首都をおいたアイユーブ朝、後を継いだマムルーク朝に撃退された。
トルコ系民族はアッバース朝では外人部隊として活躍した。イスラム教を国教とし、中央アジアでカラハン国を立て、ガズナ朝、ゴール朝、そして13世紀にはインドのガンジス河流域に達した(デリー・スルタン朝、1206 -1290年)。これ以降、インドはイスラム教とヒンドゥ教の対立が始まった。
十字軍の後にイスラム諸国を圧迫したのはモンゴルである。チンギス・ハンが率いたモンゴル帝国は、西遼を滅ぼして中央アジアの貿易の要衝を押さえ、イランから中央アジアを支配したイスラム系ホラズム王国を滅ぼした (1231年)。マムルーク朝はモンゴルに勝利し、北アフリカへのモンゴルの侵略を阻止した。モンゴルは東ヨーロッパ、ロシア、中東を征服した後、大国の並び立つ中国へと侵略を開始した。
東アジアでは、唐が衰退したあと、各地の軍事政権が勢力争いをして社会は混乱状態(五代十国時代)になった。その中から趙匡胤が宋(北宋)を建国し、弟の趙光義が979年に再統一を果たした。宋は文治主義を貫き、軍事的には北方民族の遼や金に圧迫されたが、文化は大いに栄えた。特に、南宋(1127-1279年)になってからは、江南の開発が進み、農業生産が飛躍的に向上、それに加えて、茶、陶磁器、絹などの特産品が誕生し、それを扱う商人が力を持ち、経済システムも発展した。羅針盤、火薬、印刷術が発明された。中華思想をまとめ、理性を重んじる朱子学が誕生した。
モンゴルは、金を倒し(1234年)、南宋を滅ぼした(1279 年)。朝鮮、ベトナムを侵略し、日本にも攻め寄せた。この時点で東ヨーロッパから中国までがモンゴル帝国の交通・経済システムで結ばれることになった。情報が世界的に交換され、各地で遠距離貿易に対する関心が高まった。 中国で紅巾の乱が発生するとモンゴルは中央アジアに退いた。その後、チムール帝国が中央アジアを引き継ぎ、中東ではオスマントルコが勢力を拡大した。1299年に建国されたオスマントルコは地方政権の一つであったが、強力な軍隊を組織し、アナトリアからバルカン半島に進出した。チムール帝国によっていったん滅ぼされたが、再興され、領土を回復、1453年メフメト2世は、コンスタンティノープル(現イスタンブール)を陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼした。
ヨーロッパはモンゴルの国内事情により侵略されず、また、チムール帝国の侵略も免れた。ヨーロッパにとって遊牧民族は大きな脅威となり、次の侵略に備えるため軍事体制を整えた。十字軍活動から地中海沿岸の各都市の商人が財産を蓄え、また、イスラムの高度な文明を輸入した。結果としてルネッサンス運動が興った。王国が中央集権化し、教皇や小領主の力が弱まった。
中央アメリカでは、マヤ文明以後、1200年ごろまではトルテカ人が覇権を握った。その後、アステカ帝国が侵入し、スペイン人がアステカ帝国を滅ぼすまでその版図にあった。南アメリカのアンデス山脈の太平洋側に13世紀にクスコ王国が成立した。1438年のパチャクテク即位により、インカ帝国として統一された。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえた。
1500-1900年 (アジア:東経40度から西経160度まで):世襲制リーダーを採用した社会システムの限界。
モンゴル民族を追い出した中国では明(1368-1644年)が成立した。法治に基づく高度な官僚制が整い、専制国家が誕生した。最盛期である永楽帝による統治のあと、凡庸な君主により国内政治が私物化し、周辺民族による攪乱がしばしば発生した。しかし、漢民族の民族意識は大いに高まった。満州民族は1600年頃から3世代をかけて政権を作り上げ、明の政権の腐敗に乗じて中国を支配し、清(1636-1911年)を建国した。康煕帝、要請帝、乾隆帝の140年が最盛期である。満州民族は政治・経済・文化については漢化したが、服装や辮髪で漢民族に服従を強いた。漢民族の抵抗は長く続き、清は抵抗勢力を駆逐する度に領土を拡大した。多くの漢民族が難民となり、東南アジアを中心に華僑社会を形成した。
ロシアはモンゴル人の支配下に置かれていたが、1480年にイヴァン3世の下でモスクワ大公国が独立した。中央アジアの文化であった。農民を農奴化し、専制国家を築いた。次のイヴァン4世のときに領土を拡大し、コサック兵を雇ってシベリアへ進出した。この後、しばらく混乱が続いたが、ロマノフ朝が成立し、特に、ピョートル1世(位1682〜1725年)は文化をヨーロッパ型に変えた。バルト海に進出、スエーデンと戦争して港町ペテルブルクを築き、清と条約を結ぶことにより、シベリアの支配を手に入れた。
15世紀には中国の沿海からインド洋にかけて、自律性をもつ巨大で複雑な通商共同体ネットワークが出現した。国家権力が力ずくで統制しようとしても、彼らは海に逃げ、国家権力の及ばない遠くの港に活動の拠点を移した。このネットワークはイスラム教徒が中心で、現地人や、中国、ヒンズー教徒が参加した。16世紀ごろからヨーロッパ人が出没するようになった。ヨーロッパ人は18世紀に産業革命に成功して安い繊維製品を開発し、徐々に商業ネットワークを支配した。その後、武力を背景に、アジア諸国の不安定期に政治的に介入して、植民地を拡大した。
チムール帝国の王族の末裔がアフガニスタンからインド北部へ侵入し、ムガール帝国(1526〜1858年)を建てた。王族はイスラム教徒であったが、ヒンズー教徒に対して融和策をとり、領土を南へ拡大した。アウラングゼーブ(位1658〜1707)は名君であったが、イスラム教を中心に政治を行い、ヒンズー教徒などの反乱を招いた。その混乱にイギリスが介入し、ムガル帝国は植民地となった。
コンスタンチノーブルを陥落させたオスマントルコはここを首都とし、イスタンブールと改名した。領土をエジプト、イランへ拡大し、地中海の制海権を握り、東ヨーロッパまで迫った。オスマン帝国は長期間、強力な勢力を保ってヨーロッパを圧迫し続けた。1922年、トルコの民主化革命でスルタン制が廃止された。
主要な文化圏では混乱が生じても新しい国家が誕生し、中央権威は直ちに回復された。安定した社会では商人は財産が保障されるため、信用取引がスムーズで活発であった。発達した輸送システム、統一された貨幣制度によって商人は広域で活動できた。いままでは地域内での日常的な取引にのみ機能していた貨幣のほかに、地域間で決済に必要な通貨が設定された。通貨は材料として金もしくは銀が用いられ、広い地域で国際通貨としてコンセンサスを得た。高額な通貨は富の蓄積を促進した。逆に、成熟した官僚制度は、国内の秩序を維持するために自由な交易・国際交流を制限した。
1500-1900年(アジア以外:西経160度から東経40度まで):西ヨーロッパ諸国がスーパーパワーを得て地球規模での構造改革を開始
1492年はスペインにとって記念すべき年である。イスラム勢力をイベリア半島から追い出し(レコンキスタ)、コロンブスがアメリカ大陸に到着してアメリカ大陸への進出が可能になった。1533年インカ帝国が滅亡。騎馬や製鉄技術のなかったアメリカ大陸の国家はスペインの圧力に屈し、大量の金銀を略奪され、その後も鉱山開発、農場経営で疲弊し、大陸の人口は10分の1になったといわれる。ヨーロッパはアメリカ大陸の開発のためにアフリカ大陸から労働力を供給した。ヨーロッパから物資を輸出してアフリカで奴隷を買い、奴隷をアメリカ大陸に輸出して、サトウキビや綿花などを買い、ヨーロッパで工業製品にする三角貿易は特に利益が高く、ヨーロッパの経済力、技術力を世界レベルに高めた。一方でアフリカの人口を3分の1にしたという。
後進地域であったヨーロッパでは他地域からの侵略や世界的な貨幣経済システムの波にもまれ、ルネッサンス以降、独自の文化を発達させた。新たに発明した概念は基本的人権、資本主義、科学的方法論の3つである。
また、国家の統治に王制以外のシステムを生み出した。それまでは覇者が王になるのが常識だった。基礎はイギリスで生み出され、王のいないアメリカ合衆国が誕生した(1776年)。フランスでは革命が王を処刑した (1793年)。これらの過程で生み出された議会による国家運営方法は国家レベルでの民主制であった。国民の概念が誕生し、基本的人権が発明された。一方で、戦争が国民の仕事になり、戦争自体が過酷な政治行為となった。全体戦争が出現し、強い軍隊の背景でヨーロッパ社会は世界を植民地化した。1840年アヘン戦争。1877年イギリスがインドを植民地化。20世紀初頭で完全な独立を保っていた有色人種は日本人だけであった。
イギリスで始まった産業革命により、繊維製品を中心に大量の工業製品が安く生産された。また、1540年ごろ、スペインで完成された火縄銃はそれまでの戦争の方法を一変させた。よく訓練された騎馬隊に代わって銃を持った一般市民が戦争の中心になった。それまで中央アジアを中心に活躍した騎馬民族は完全に封じ込まれてしまった。ヨーロッパは武力を背景に、貿易を中心に世界に進出した。1600年ごろに東インド会社を設立。アジアの大国の及ばない地域に足がかりを確保した。また、ヨーロッパ地域を中心に、各地で戦争を起こし、強大な軍事力を育てた。
資本主義は拡大・成長することが存在の要である。植民地争奪の先が見えてきたとき、第一次世界大戦が起こることは必然であり、ナチスなどの全体主義の台頭は国民国家主義が極端なまで推し進められたことによる必然であった。
人類の歴史を、500年毎に区分し、まとめてきた。約20万年前にアフリカで誕生し、十数万年のときを経て世界の大陸へと拡散し、その間で火や船を使う技術を獲得した。気候の温暖化により、農業技術を確立し(1万年前)、文字・金属を発明して都市や帝国を生み出した(6000年前)。国家に技術や知識が蓄積され、宗教のもと、体系化された(2000年前)。知識と技術の探索と体系化の作業は加速され、そして、科学的知識が高度に体系化された現代(200年前より)は大きな革命の時期と言える。
これらの時代を通じて、人類は生物種として変化せず、したがって、3万年前にインド大陸を南下していた人間と、3000年前にアーリア人の侵略に立ち向かったドラビダ戦士と、300年前にイギリス商人と貿易していたムガール帝国の商人と、巨大なシンクロトロンを運転して素粒子の消長を観察するインドの物理学者の知能にそれほど大きな差があるわけではない。
人間の活動がすべて記録・保存されるわけではないので、過去の事実について、すべて知りえることはない。20万年の人類の歴史の間に、ほんの5000年ほど進歩の時間を許せば、地球上のどこかに200年前レベルの文明を築いた民がいた可能性が考えられる。現代レベルの文明になると、地球上に大きな変化を引き起こすため、何らかの理由で滅んでも、その足跡は完全には消せないだろう。
人類が地球に及ぼした影響は、人類以前の生物、地質、気象現象が引き起こした変化に比べて急激である。地球史において、草原が大森林になるには数千年を要した。また、安定した大森林ならば数千万年のオーダーで存在しつづけたであろう。人類は木を植えて草原を数百年で森林に変え、逆に大森林を数十年で草原(牧場)に変えてしまう。生物圏は人類の活動の引き起こす環境変化には、到底ついていくことはできず、いわば、過去にあった大絶滅に匹敵する絶滅が起きている。
人類が農業技術を発明して自然のエネルギー循環をコントロールするようになってから、人類は生活圏に特別な環境を作り出した。環境の維持・拡大には自然界の理解が不可欠である。理解の方法は宗教から自然科学へと移り、より効率的に人類生活圏が拡大されるようになった。科学的な原理・思想により人類生活圏を改造・維持してきて、まだ200年ほどしかたっていない。しかし、変化は急激である。科学文明という価値観はすでに総合評価される時代に入ったといえるであろう。
次回から、現代文明の基礎である動力技術、化学、食料、医学の各分野について、これらを土台とした都市化、労働の変化、インターネットを展望し、人類の未来について展望したい。
人類が誕生してからおそらく98%の期間は主要な動力源は人間であった。数千年前、大型哺乳類である牛、馬、水牛などを家畜として人間社会に取り込んだとき、動力源としてより大きな出力を得た。家畜は人間より出力は大きいが、制御が難しいこと、飼育管理が必要なことなど、動力源としての人間を完全に置き換えることはなかった。主に輸送手段として利用された他、食料にもなった。
ついで、水車や風車が発明された。水車は紀元前1世紀ごろ、ギリシャに記述が残っている。最古の風車は探し当てることはできなかったが、水車と同時期・同地域にあるのだろう。自然のエネルギーを利用する動力装置は風や川の水量などの自然条件によって左右され、出力の安定性に欠陥があった。また、災害による被害も大きかった。それでも、長時間の利用には欠かせない動力源であった。蒸気機関、内燃機関が普及されるまで大型化され、改良されて世界中で利用された。
様々な機械の部品が鉄製になるにつれ、18世紀には蒸気動力が実用化された。産業革命初期は、蒸気機関や製鉄業は木材を燃料にした。やがて、森が少なくなると、燃料は石炭に変わった。特に、イギリスでは石炭と鉄鉱石の大鉱脈があり、2つの資源が輸送の手間をかけずに結び付けられた。ワットの改良型蒸気機関が普及に伴い、また、その後発明された蒸気船、蒸気機関車、コークス製鉄炉に利用されて、石炭は一気に生産量が増した。蒸気動力は川や風がなくても利用可能であったから、強力な動力を必要とする工場を都市の中にもつくることができた。毛織物工業の発展からアメリカ大陸から綿花を輸入し、綿製品をインドやアフリカ等に輸出する加工貿易が盛んになり、その資本が産業革命を後押しした。
19世紀後半に実用化した内燃機関は燃焼部とエンジン部を一体化して小型化・軽量化が可能な動力技術であった。内燃機関は運搬用の動力という方向で進歩し、道路の整備などのインフラを整えながら社会に普及した。
動力装置は基本的にエネルギー変換装置である。風車は空気の運動エネルギー(風)を軸の回転運動などに変換する。水車も水の運動エネルギーを変換する。蒸気機関は燃料の化学エネルギーを熱エネルギーに変換(燃やす)し、蒸気を作り出して、蒸気の膨張を一定方向の流れとして運動エネルギーに変換する。蒸気の運動エネルギーを軸の回転運動などに変換する。内燃機関は閉じ込めたシリンダー内で燃料を爆発させ、膨張エネルギーをピストンに伝える。化学エネルギーをピストンの運動エネルギーに変換して利用する。
19世紀になると発電装置が発明された。風力、水力、蒸気機関、内燃機関も発電機をまわすことに使われ、電気エネルギーに変換されて利用されることになった。20世紀には原子力も追加された。電気エネルギーは送電線などのインフラが整うと運搬コストも安く、装置も小型で安全性も高いので急速に普及した。
さらに、電気エネルギーを化学エネルギーの形で蓄える電池や充電池が開発され、普及した。電池や充電池は発電機と送電線でつなぐ必要がないので持ち運びに便利であり、さらに機器の小型を促進した。現在では化学エネルギーを熱を介さずに直接電気に変換する燃料電池が開発中である。
電気は送電線を伝わるが、電磁波として空気中も伝わる。情報を電気の波(電波)を送電線や大気を通じて遠距離まで送る技術は情報の取扱いを高速化した。
自然哲学の研究テーマは、物質、命、未来の予測である。物質世界を理解しようとする自然哲学は、現代で言う物理学と化学を含んでいる。自然哲学は物質世界の根本原理の解明を目的とする。根本原理を明らかにすると、例えば、金を作り出すことができると考えられた。錬金術は、物質をより完全な存在に変える技術のことをいう。また、同じように、人体を永遠不滅に変えて不老不死を得る技術も探索され、古代の文明国家では霊薬が研究された。これは中国に限らない。複雑な生命現象を合理的に説明し、病的な状態を説明する自然哲学は多くの文明で誕生した。占星学は天体の動きで未来を正確に予測する学問として成立した。規則正しい星々の運動がこの世の動きに連動する考え方は、人間に時間や未来という概念を誕生させた。また、未来が様々な形で暗示されるという占いの基礎になった。
自然哲学からケプラー、ガリレオ、デカルトらを経て、ニュートンが数学を力学の法則を語る言語として導入して、物理学が自然哲学から分離した。物理学は数学の成果を利用して自然現象を説明する学問である。数学を利用することで、現世の実験に限定されることなく、より深く自然を理解し、応用に便利な厳密さを獲得した。特に、天体の動きが単なる物理法則であるという考え方は占星術を迷信に追いやった。
一方で、物体や物質に関する自然哲学は別の道を歩んだ。中世の錬金術師が蓄積した物質の抽出技術が基礎となった。酸と金属を混合すると水素が発生する。発生する気体が空気とは異なることから、水素が発見された。これを契機に18世紀後半には窒素、酸素などの次々と気体が発見された。化学反応を観察するとき、反応する物質の重さ、できた物質の重さを数学的に解析すること (定量的な解析)で、化学反応に一定の比例規則があることが明らかになり、ラボアジエにより質量保存の法則として、また、ドルトンにより元素、原子、分子の概念が整理された。
当時のヨーロッパ諸国は、勢力を拡大すると同時に、世界各地を探検し、未知の生物や珍奇な博物標本を収集した。動物・植物・鉱物といった自然界に存在する物について、種類や性質などの情報を収集・記録し、さらにそれを整理・分類する学問を博物学(natural history)という。
19世紀には、物質の反応が原子の組合せとその結合で整理され、様々な化学反応が発見された。元素探しが始まり、その成果が周期律表としてまとめられた。また、元素の組み合わせである分子の合成、抽出が行われた。化学とは地球上や宇宙に存在する無数の物質それ自体を、そして、それらが相互作用して織り成す物質世界や生命世界を、分子という概念で理解する科学として特徴付けられる。
同時に、化学産業が世界中に広まることになった。まずは、色素が合成され、ついで、爆薬(ダイナマイト)が合成された。物質の生成分解を分子や原子の結合・離脱反応として測定し、理論として記述し、予測する。化学の知識を使うと、自然界に存在しなかった物質を作り出し、利用できる。錬金術師が行った化学反応をはるかに超える精度で、より網羅的に化学反応が調べられた。その中から新たな便利な物質を生産する産業が誕生し、まさに錬金術となった。
20世紀にはいると、生体を構成する分子が解析対象に加わった。 1907年、世界初の合成プラスチック「ベークライト」が誕生した。また、分子と分子の関係を理論的に説明するために、物理学と同様、数学が導入され、物理化学として境界学問が誕生した。代表的な成果の1つとしてエレクトロニクス技術の基礎である半導体が挙げられる。
我々の文明社会は、化学によって支えられているといっても過言ではない。石油製品、医薬品、化学肥料、半導体、鉄、セメント、プラスチック、合成繊維、化粧品などから文房具にいたるまで、生活に直接、間接に用いられている物の多くが合成化学の成果から得られている。
人類は、陸地や海洋に生育する様々な生物、植物、動物はいうに及ばず、目に見えない微生物も利用してきた。それは自分達の生命を維持し活動するための栄養源とするとともに、日常生活を支え、豊かにする資源である。長い歴史の間に、利用目的にあう生物資源を選択した。さらには身近に飼育し、望ましい性質のものを選択・改良した。同時に、生育しやすく、生物の能力を最大限に引き出す栽培・飼育方法を編み出してきた。 安定した収穫を保証するため、人々は灌漑を行い、寒さや害虫に強い作物を育種してきた。育種の方法も経験に頼っていたが、メンデルは、遺伝要素が独立した単位として振舞うことを数学的に明らかにした。単位は遺伝子と名づけられ、その実態はDNAと呼ばれる化学物質である。遺伝学は膨大な育種のコレクションから必要な形質を抽出し、遺伝子を固定する(品種を作り出す)のに役立った。
稲と小麦の品種改良の基礎は日本で、トウモロコシの新種は米国で商品化された。稲と小麦は矮小化品種である。植物の栄養は光合成で作られる。限られた光合成産物を根、茎、葉の成長に配分する量を少なくし、子実に多くを配分する品種である。実への配分は20%から50-55%にまで引き上げられた。同時に背が低いため、穂が重くても倒れにくくなった。収穫の自動化に適している。植物の健全な成長には、十分な根、光合成のための十分な葉、丈夫な茎が必要とされるので、この辺が収穫指数の限界と考えられる。
ドイツのリービッヒは、1840 年、植物が必要とする無機成分は炭酸ガス、水と、窒素、リン、カリウムであると解明した。窒素、リンとカリウムは鉱石から供給できたが、窒素(硝石)は鳥の糞由来の天然資源でもあり、火薬の材料ともなったため、不足気味であった。1900年初めから大気中の窒素を化学的に固定する方法が開発され、1913 年にドイツのBASE社が工業的に大量生産する技術を開発した。窒素固定の技術は火薬の大量生産も可能にしたのでドイツが第1次世界大戦に踏み切った理由とする説もある。これで土壌の微生物に頼っていた栄養補給を人工的に行うことができるようなった。化学肥料が本格的に生産されたのは第二次世界大戦後である。火薬工場が相次いで化学肥料工場に転身したという。さらに、作物以外の生物を殺し、除去する除草剤と殺虫剤も農地に投入された。これらの化学物質により、穀物の成長が促進され、損耗が最小になった。
動力を搭載した土木機器による開墾や耕作装置が投入され、今まで家畜や人の力に頼っていた重労働を肩代わりするようになった。さらに、土木機械によってダムや農業用水路の建設を行うことができ、それまで草原や森林だった土地も耕地として利用できるようになった。動力装置により地下水も汲み上げ、農業用水として利用可能になった。
収穫量が多く、倒れにくい新品種に化学肥料を与え、大型機械を用いた栽培・開墾により、この半世紀で世界の穀物生産量が2-3倍になった。これら3つの技術を緑の革命という。
その結果、今日では、我々の回りに食べ物や生活物資があふれている。しかし、地球規模で見れば逆に食糧生産の増加が人口の増加も引き起こし、食料生産が人口増加に追いつきそうにない。また水資源の過度な利用、複雑な生態系を単純化した耕作地が、地球環境の悪化や生態系の破壊を引き起こしている。
19世紀になると医療技術に大きな進歩が現れた。一つは安全な外科手術であり、もう一つは、ワクチンの開発である。 外科手術は麻酔薬と消毒技術により、成功率が大幅にアップした。
麻酔は、3世紀初頭、後漢時代の医師である華陀が、曼陀羅華(まんだらげ、朝鮮アサガオ)を用いて全身麻酔を行ったと言う記述が残っている。朝鮮アサガオにはスコポラミンという強い鎮静作用を持つ化学物質が含まれている。副作用も強いので、一般に普及しなかった。医療技術としての麻酔は1804年に紀州の華岡青洲が確立した。曼陀羅華の使い方を工夫し、効き目をよくし、副作用を少なくした。クロロホルムやエーテルも19世紀に麻酔効果が発見された。簡単に合成できるが、効果が持続せず、吸入量をコントロールする必要があり、肝臓障害などの副作用も懸念される。麻酔法は外科手術において患者の負担を大幅に軽減し、手術の成功率を上げた。
大きな外傷は化膿することが多く、致命的であった。治療には焼き小手で患部を焼却処置し、止血と感染の防止を行っていた。化膿の原因が微生物の繁殖と判れば、できるだけ微生物を除去する(消毒)ために、手術の前に手洗いをし、器具や包帯などを熱湯で処理するようになった。また、傷口を消毒する薬品が工夫され、傷口を覆うようになった。病原微生物が発見された当時は戦争に大砲などの大型火器が使われ、兵隊の戦闘による四肢の損傷もひどくなった。戦場外科医は、傷の化膿を防止するために消毒技術を実地で試すことになった。
パストゥールは、1860年ごろに微生物自然発生説を否定する実験を行い、空気・水・土壌中の環境微生物を証明した。そして、微生物が腐敗や病気を起こすと考えた。1885年には狂犬病ワクチンを開発した。一部の病気が微生物の感染によるという考えは、消毒や殺菌法の開発の基礎となった。多くの微生物学者が壊疽、敗血症、産褥熱の病原菌を研究し、病原菌として分離した。なお、ワクチン第一号はジェンナーによる天然痘ワクチン(1796年)である。
ワクチンは感染症に対する抵抗性を持たせる薬であり、確実に流行感染症を封じ込めた。特に1980年には長年、人類の敵であった天然痘がワクチンの普及により撲滅された。
20世紀には多くの薬が発見された。効き目がよく、副作用の少ない解熱剤、鎮痛剤、麻酔薬も急速に進歩した。抗生物質、麻酔や輸血などを駆使して癌の切除や心臓の手術、臓器移植など、複雑な手術を行うようになった。特に、抗生物質の威力は絶大で、新生児の生存率を劇的に向上させた。抗生物質が一般に普及した1950年前後は先進諸国で団塊の世代を生み出し、年齢別人口にひずみが生じることになった。
多くの人類を殺してきた微生物のコントロールがほぼ完了すると、医療の次のターゲットはがんや生活習慣病となった。微生物は外敵であるが、がんや生活習慣病は体の異常ともいえる。人間が健康であるために、肉体や精神を自己管理するようにライフスタイルが変化した。
農業が始まると人々は定住し、都市を築いた。都市は権力、情報、物資の集配地であり、権力者が自分の所有物を直に管理するのに適していた。
産業に使われる動力が自然エネルギーから蒸気機関等に切り替わると、生産の基盤が都市に移動し始めた。都市は権力、情報、物資の集配地であったからである。産業革命により土地を追われた人々、新産業に可能性を求めた人々は、収入を求めて都市に移り住んだ。都市には生産工場、労働力の集配地としての機能も加わった。多数の人々が集まったため、都市では一次産業以外の仕事が分化し、自分の才能を試せる場として魅力的であった。都市も土地や地方の因習に縛られない純粋な労働力を歓迎した。職業の分化は貨幣経済の浸透を促した。生産物や労働の対価は貨幣に交換された。すなわち、数値化された。
多くの人口を抱え、生産活動をするためには、水、エネルギーの供給と、排水、廃棄物の処分の仕組みが不可欠である。19世紀以降、都市は上下水道を川や運河と分離し、独立した水の給排水システムを基盤として持つようになった。石炭をエネルギー源とした内燃機関はあちこちに動力を提供し、様々な生産活動に用いられた。また、鉄道による交通網が整備されると都市は郊外に拡大した。
20世紀になると、2つのエネルギー源がさらに都市を巨大化させた。電力と石油である。電力が供給されると、廃棄物や排ガスの出る内燃機関は敬遠され、代わりにモーターが動力として用いられた。モーターは内燃機関よりさらに小型化が可能で生産以外にも様々な場面で利用された。ガソリンを使うことでモーターと同じような小型の内燃機関が普及した。特に、小型のエンジンを搭載した移動用の機械、自動車が実用化し、多額な費用をかけて道路も整備された。鉄道は駅を結ぶ交通機関であるが、自動車はドアを結ぶ交通機関であり、狭い地域での自由な移動に適していた。
都市は近郊から水や電気、食料を集め、廃棄物を近郊へ捨てるようになった。様々な産業が集中するとサービスも多様化し、集積された経済活動が都市の生産性を底上げした。人口密度があがると電気・上下水道・情報などの公共ネットワーク敷設に規模の経済性が働き、都市はますます快適な空間となった。現在では都市は高層化し、集中が加速されている。
国連の統計によれば、現在、約60億の世界人口のうち半数が都市に住んでいる。さらに、今後の30年間で世界人口は80億人を超え、都市人口は60億人を超えると推測されている。日本を含む先進国では、すでに4分の3以上が都市人口である。日本は国全体で都市型社会が形成されていると考えられる。
日本は高齢化社会を迎えているが、高度成長時代の人口移動の名残で各都市では比較的若い世代が多い。しかし、この30年ほどで都市の年齢構成は急激に地方に追いつき、大都市圏は高齢化する。地方への農村回帰の流れが話題となるが、逆に都市の快適さを知っている世代の都心回帰の流れの方が大きい。
長い歴史の中で、人間は自然に対して働きかけ、人間にとって有用で価値のあるものを生産してきた。また、生産物を必要な場所に運搬し、加工し、貯蔵し、配給した。生産や運搬の過程で発生する廃棄物を処理してきた。そして、生産活動が大規模化し、共同作業が増えると、これらの労働を管理する仕事も発生した。分業によって生産力が上がり、また、高度な道具を使用した専門的な職業が発展した。組織や社会の運営を通じて、人々は序列の中で組織的に働くという態度を身につけた。組織の中で基本的な仕事から複雑な管理仕事まで、キャリアを形成するように教育システムを整えた。才能や知識を評価しながら有能な人材を登用する近代的な雇用関係の基礎が築かれた。
18世紀以降、内燃機関などの利用により、動力が生産活動が天候などの自然条件に左右されずに供給できるようになると、生産工場は労働力の得やすい都市に移った。経営者は売上げを上げるために、労働時間を増やし、労働者は酷使された。ヨーロッパ社会では民主社会に移行したこともあり、大規模なストライキが発生した。経営者も労働者の福祉を考えざるを得ず、労働条件を雇用者と協議するための労働組合が成立した。
欧米で始まった近代工業システムは、流れ作業を生み出した。それまで、生産は職人の技能に頼っていたが、熟練や経験を必要とする技能を単純作業に分解し、短期間の教育訓練で誰でもできるように整理された。その結果、職人は工場労働の中へ囲い込まれ、独立の作業人としての特質や独立の気風も失われた。産業構造が転換するとき、職業構造も転換する。労働は肉体や頭脳を提供する代わりに、賃金を得る行為となった。それまで大部分の人が第一次産業に従事していたが、第二次、第三次産業が経済の中心になるにつれ、サラリーマンが大幅に増えた。
都市や企業組織が成熟すると、生産活動に携わる以外に、食事やレジャー、大規模な小売店などのサービスを提供する職業が発展した。社会全体に生産力の余力が生じたためである。余力は主に化石燃料である原油や石炭をエネルギー源・化学原料として用いたことを源泉とする。また、科学技術の浸透によって生産技術・知識が蓄積したことも大きな要因である。現在はかつて生産企業の間接部門であった業種の独立、個人生活の一部の産業化が盛んで、経済活動の主要な部分を第三次産業が占める。
社会が成熟するにつれ、生活や人生の満足度が貨幣に大きく依存するようになった。失職は生活手段を絶たれることを意味する。現金収入がないと、教育、交通手段の確保、病気による通院などが困難になる。労働が賃金と結びついたため、賃金を得ない活動は軽視される。利益と直接結びつかない自然環境、社会資本が軽視される。
人々が労働力として企業に組み込まれると、各地域に存在していたコミュニティーや共同意識が崩壊した。地域コミュニティーは、これまで知恵や経験のある高齢者の活躍の場であると同時に、若年者が地域活動への参加を通じて一人前となるために必要なコミュニケーション能力や社会性を身につける教育の場でもあった。自営業者中心の社会では、コミュニティとして集団的であっても個人の意志に基づいた働き方ができた。
あまり働かず大金を稼ぐことばかりを追い求めているにしろ、長時間の労働なのに必要なだけ稼いで満足しているにしろ、仕事の価値観は現金収入が基準になっている。いずれにしろ、人は生きて行くために何らかの仕事をしなければならない。本来は仕事とは社会貢献であり、また、個人にとっては生き方そのもので、仕事を通じて自分を創る。社会が成熟してきた現在、単一の組織・価値観だけに従属した生き方が反省されている。
科学や技術の進歩は相互に関連しながら進行する。コンピュータ関連の進歩も同様である。半導体を応用した論理回路の構築に始まり、シリコンの純度を上げる技術を土台に集積化が進行した。フォトレジスト技術を応用したエッチング加工で微細な配線が可能になり、LSI が大量生産できるようになった。コンピュータ素子の演算1単位だけではたいした効率化を生まない。演算を大量に、高速に、しかも小型の装置で実行できることがコンピュータの最大の利点である。
情報を電気信号として素子に一時記録できるようになった。情報を解析・加工するソフトウエアも同じように電気信号として素子に記録する。ソフトウエアの命令を順番に読み出し、その命令に沿って、メモリーから情報を呼び出し、演算加工し、指定の場所に出力するのがCPUである。 電子データを人間の五感に受け入れられるように、データを入力するキーボード、マウス等ポインティング入力装置、画像として表現するディスプレイ、印刷への応用(プリンター)、スピーカーなどの周辺装置が開発され、なお進歩している。電子データをやり取りするための磁気もしくは光磁気による記録媒体は変遷を重ね、小型化、大容量化が著しい。
コンピュータの機能は可塑的な部分が大きいため、製品や生産者によって仕様が千差万別になる恐れがあったが、そのことが逆に、マン‐マシン、マシン‐マシンインターフェースを統一する社会的な仕組みを強めた。コンピュータだけでなく、電話や、パソコンのOS、あるいはインターネットがよい例である。機器の操作のみならず、手続きや制度も共通化することにより、トラブルが少なくなり、教育コストが低下し、より多くの人間が参加し、より知恵が集中し、さらには資本や投資も集中するという好循環を生んだ。ハードやソフトの進歩がさまざまな場面で、仕事、業界、社会のスタンダードを刷新した。急速に進歩し汎用性を増した通信・コンピュータ技術が関連業界、業種を巻き込んで、IT産業に再構築された。
コンピュータを利用し、大量の数値、文字データを高速で通信できるようになると、通信設備を共通化し、個人から個人へと直接データを送れる仕組みが誕生した。インターネットである。もともとは戦争などによる破壊に強い多重ネットワークによる通信網の研究から生まれた通信制御技術であった。人と人を自由に結び、安価な双方向の情報通信技術であったために、産業界では瞬く間に普及した。サーバーに情報を蓄えて保存でき、また、その情報は電子情報であるために加工も容易である。コンピュータで扱えれば、文字データ以外に画像、音声も自由にやり取りし、貯蔵できる。インターネットは独占的職種であったジャーナリズム、情報通信、出版を一般の人々に開放した。
逆に、自由な通信システムを利用したウイルスやジャンクメールもはびこっている。最初のコンピュータウイルスは1982年、ピッツバーグの高校生が作ったElk Clonerだという。AppleIIに感染し、自身のコピーをフロッピーディスクに作成した。生物界でのウイルスと同じように人為と無関係に進化する可能性はないだろうか。
コンピュータ化はグローバル・スタンダード、グローバリゼーションという考え方が政治や経済を席巻した。しかし、グローバリゼーションが手段や手続きの範囲にとどまっている場合はよかったが、手段や手続きを共通化するために財・サービスや生活様式まで均一化、合理化するようになると、かえって社会的なストレスや矛盾となった。また、先進国が発展途上国の経済産業を席巻するためにグローバリゼーションが利用されるなど国際的な緊張も発生している。民族、宗教、文化などの多様性を確保するべきだと主張する流れが大きくなりつつある。
現在の人類は約20万年前に種として分化・独立し、生存環境で競合する近縁種を絶滅させ、大型哺乳類などを駆逐・捕食しながら7万年ほど前から世界中に拡散した。約1万年前から生存環境を自らの生存に適するように再統合する技術を生み出し、実行してきた。その結果、人類の交流能力が高まり、本来ならいくつかの種に分化するはずが、一つの種を保つこととなった。
約200年前から始まった科学技術革命により、人類は環境を再統合するにとどまらず、再構築するようになった。かつて自然界に存在しなかったさまざまな化合物や純粋な物質を生産し、医療、食糧生産や保存、住環境の整備に利用している。一方、大規模に土地を改変する技術と動力装置を生み出し、海を陸に変え、山を平らにし、大河の流路を狭めたり、変えた。森の木を切り、草原を潤して農地に変えた。 生活環境が改善されると人口が急激に増え、増えた人口のために人工的に管理された生活環境を拡大するというポジティブ・フィードバックが自然環境を単純なものに変えている。新たに作り出した化合物や環境の改変が地球環境に及ぼす被害を予想しかね、文明は大きな岐路に立たされている。
人類は総人口を抑制する方向に向かうだろう。望ましい人口は地球の状態によってきまる。地球規模の監視システムが整いつつある。宇宙から地球表面を監視できるようになり、また、様々な情報が通信により世界中に短時間に伝達される。巨大な権力を一部の人間が独占すること、すなわち、資源や情報、富を独占することに対して全人類が神経を尖らせ、監視する世界となる。
すべての人々が現在の先進国の生活水準で生活するだけの資源やエネルギーは地球上になく、また、汚染なしには環境から調達できない。近い将来、先進国と発展途上国の間で生活水準と人口を調整する作業が本格化する。急激な社会変化は多くの悲劇をもたらすことは歴史の示すところであるから、慎重な調整作業が望まれる。
地球表面は新生代になってから徐々に冷えてきた。現在の気候は100年程度の周期からすると小氷期からの回復期にあたり、平均気温が上昇中という見方がある。しかし、1万年程度の周期からすると間氷期であり、数千年後には氷河期になり、氷河期が数万年続くはずである。そのことを考えると人類にとって適度の温暖化はむしろ好都合である。温暖化が大気中の温室ガス濃度で調整可能であるなら、気温を監視しながら氷河期が来ないように温室ガス濃度を調整すべきである。
今後、数十、数百万年のオーダーでの気候変化は不明である。大陸はアジアに向かって集合中であり、2億年後に超大陸が出現する。山脈による気流の変化、大陸が1つになることによる海流の変化は地球の気候に大きな影響を及ぼすであろう。いずれにしろ、地球自体は冷え続け、太陽は逆に高温になる。数億年後、太陽は水素より重い原子核、ヘリウムを燃やし始め、現在より放出エネルギー量が多くなる。また、太陽の直径も大きくなる。太陽の熱に焙られて地球上の海が蒸発し、地球は水蒸気の大気をまとう。有機物からなる生命体は滅びる。25億年後は水蒸気の大気と熱供給が釣り合い、マグマオーシャンが地上を覆い、しばらく安定化する。アンドロメダ座大銀河(M31)とわれわれの天の川銀河は30億年後に衝突すると考えられている。地球への影響は未知である。そして、約50億年後、太陽は末期を迎え、巨星化し、地球を飲みこむ。
終わり
ウィキペディアをはじめとする多くのウエブページ、特に、博物館、天文台、大学のウエブページを参照しました。Bookmarkをhtmlファイルとしてみると2MBにもなりました。なかでも小出良幸先生のホームページ(http://www1.tecnet.or.jp/earth/index.html)にはお世話になりました。
学術論文はNature誌、Science誌を中心に、専門外の分野については両誌で多く提供されている日本語訳を参照しました。
そのほかに、単行本として以下の図書をあげます(全部調べきれていないので順次追加します)。